電車で読むもの

日本も昔は紙だった

 あるユーチューバーさんが、

  • イギリスでは電車の中ではみんな本を読んでいる
  • 日本では地下鉄でも電波が届いていて、スマホを見ている

と言っていた。
 昔は、日本でも新聞雑誌を読んでいる人が多かった。駅の売店では新聞が高く積まれていた。満員でも新聞を広げて読む行為は迷惑行為のひとつとされていた。特定の曜日は少年漫画雑誌が発売され、新聞の間に雑誌が積まれていた。年配は「人前で電話帳を広げよって」と皮肉っていた。
 昔はスマホ見ていたよね、という日がやがて来るのだろうけれど、そのときの風景がまだ想像できていない。

そういえば

 かつての駅は汚かった。まず、トイレが汚かった。今では温水洗浄付きの便器まで置かれている。
 駅のホームはたばこの吸い殻だらけ。やがて駅は禁煙になったが、ガムを吐いて捨てるものが多く、床は黒い斑点が至る所にあった。
 駅の売店には、暗算能力に優れ、瞬時にお釣りを計算し、その額の小銭を渡す店員が当たり前だった。今は現金決済は遅いというイメージが付いているが、決済待ちを嫌がる人はちょうどの小銭を持っていくのもいいが、千円札か500円玉さえ渡せば瞬時に会計が済んだものである。ちょうど新聞雑誌が駅の売店で売れなくなったあたりから、人手不足によりレジ式の売店が当たり前になり、そして今は合理化によって駅の売店そのものが姿を消すようになった。
 売店の店員を見てもすごいと思わなかったのは、そもそも改札が有人だったからかもしれない。改札員は、検札業務、鋏入れ、乗り越し精算を同時に行う能力を必要とした。もちろん、運賃制度や料金表が頭に入っている必要もある。
 鉄道は様々な変化を遂げてきた。今、乗客が著しく減っているが、また新しい変化をするためのチャンスなのだろうか。ただ、市場が小さいときはあまりいいシナリオが思いつかない。どうかサービスを維持してほしい。

何かのせいにしたがる

 大阪の流行感冒は都構想のせいではないと書いたが、今度はGoToがとか、菅首相がとかマスコミが言い出した。
 流行っているのはウイルスのせい。ウイルスは人間界に広がりたくて、人間の生活に合わせた体になっているのだから、人間が人間らしく生きていれば広がるのは当たり前。それを誰かのせいにしたがる。そりゃ、全員が家に閉じこもるのが一番感染しないのは誰にでもわかるよ。でもそうしないのは、人間が人間らしく生きるためには食べていかなければいけないし、人間らしく生きないと社会的には不安が増大して被害が増えるからなのであって、誰かの利権のせいにするのは無理があるのだと思う。
 自分のことしか考えない自粛派が、自粛に異を唱える人に対して

  • 自分のことしか考えない
  • 全然ニュースを見ない
  • もはや犯罪ではないか

とまくしたてているが、全部そのまま自粛派にお返ししたい。ニュースを見ないは、客観的な分析を読もうとしない、というか、ニュースに洗脳されていると言うべきか。

大阪の第3波は都構想のせいではない

 大阪でCOVID-19第3波に伴い赤信号点灯が宣言されたのを受けて、都構想に熱心で対策を怠ったからだという批判が起こっている。
 感冒の広がりは寒くなったからであり、ワクチンがない状態でも何か人間が対策をすれば感染を抑え込めると考える方がおかしいのであって、ましてやウィルスの上司でも部下でもない政治に対して感冒流行の責任を求めるべきではない。
 医者だって一般市民だって、寒くなればCOVID-19が再流行すると薄々感じていたわけで、いざ再流行した時点で維新のせいって言うのは単なるやつあたりだ。むしろただの風邪論者の方が「例年のインフルエンザと同じくらいにまで患者が増えるのは当然」と冷静に分析していて「今はインフルエンザはほとんど流行っていないし、COVID-19も例年のインフルエンザほどではないので、抑え込めている」というのがまともな発想だろう。もちろん、医療崩壊は残念であるが、政治ががんばれば風邪を抑え込めたと考える発想が信じられない。もし本当にそんなことをしたら、今よりもさらに経済を殺して自殺者を増やしてしまう。
 政治ができるのは予算を用意することだけであり、地方自治体には限界がある。国に7兆も予備費が用意してあるのに、それを取りに行かなかった医療業界と医療行政が責められるべきなのに、そこには批判が届かないようになっている。
 大阪維新の会が小さな政府を求めてコスト削減した結果だという意見も出てくる。しかし、医療の現場が主張しているように先般の医療崩壊は設備不足よりは人で不足であり、医療業界に人件費を投じているのは国の診療報酬の問題である。そして、医療行為ではないことに手間がかけている医療業界のカイゼン不足の問題である。
 呼吸支援を行うエクモを装着すると、患者にエクモ技術者が付きっきりになるという。監視をするのに必要なのは、患者の容態を判断する技ではなく、エクモの取り扱い技術である。エクモを付けていても容態が悪くなった場合の措置は医療従事者が行わなければならないが、なぜ機械の操作を医療従事者が行わなければならないのだろうか。幅広く医療の知識を持った者だけが初めて機器取り扱いができるという前提をおいてしまっているところがよくない。こうしてしまっているのは医療の免許制度である。患者の方が「先生に診てもらわないと不安」という固定観念を持っているのもいけないけれど、徹夜続きの現場がミスする可能性の方が高いような気がするので、本当に医療知識がないとできないこととそうでないことの分離はまじめに取り組んだほうがいいのではないか。
 看護師の仕事ももっと看護に特化すべきだ。外来の待合室で「○○さーん、8番の診察室にどうぞー」とやっているあれ、本当に免許を持った人がやる仕事なのか。遊園地のアトラクションの入り口で客の整理をしている人たちと変わらない。あんなことを高時給の看護師がしていて忙しいなんて理由になるのか。これを仕方がないと考えてしまうことが、本日の医療崩壊を生んでいる。
 医療の省力化が進んでいないというのは、中途半端なIT*1がむしろ合理化の邪魔をしている問題や、免許を持たない者に作業をアウトソーシングする工夫を怠っているという話であり、予算がなかったということだけが理由ではなく、慣習と既得権益から抜け出せないという問題でもある。お金もないし、壁も高いから改革する気が起こらなかったというのは同情する。しかしCOVID019により、頼めばお金を出してもらえる大義名分ができたのに、そんな日が来るなんて夢のまた夢と思っていたので、もしお金があったらどうしようかと考えることを怠ってきたお医者さまたちは、とりあえず重症患者のベッドをコロナ用にします!くらいなことしかできなかった。
 「来年までの限定でいいから、あの施設とそっちの施設を臨時コロナ病棟にしてください。そのかわり、うちの病院はコロナお断りで、平常営業させてください」
くらいのことを言えばいい。自粛しなさい、GoToトラベルやめてください、よりは随分と穏当で、現実的で、効果が提言になると思うのだけれど、他の権力からの圧力が怖く、一般市民に対して忍耐を強いることくらいしか言えなかった。そして、それが激しく、傲慢な呼びかけになってしまっているにもかかわらず、マスコミが「仕方ないよね」と問題意識を持とうとしない。
 そのうち、電力会社や交通機関、そして消防署や自衛隊も、「私たちの業界の不作為のため、一般市民が我慢してください」と言うようになるかもしれない。いつまで市民はしょうがないと言い続けるのだろうか。それともその都度、マスコミに洗脳され続けるのだろうか。
 コロナ禍は人災だけれど、責める先を間違えている人が多い。

*1:電子カルテ医療機関で連携できない件など

プランクトンで小エビを釣る

 TポイントやPontaなど、共通ポイントサービスが競争を繰り広げています。
 ポイントは買い物をするとサービスに設定された還元率に応じたポイントがもらえる仕組みですが、中には買い物をしなくてもポイントがもらえる場合があります。なぜでしょう。
 サービス各社は、ゲームやおみくじだけでポイントを出しています。ポイントを出し続けたら破産してしまわないでしょうか。しかし、そのサイトには広告があれば、そのポイントの原資は広告かもしれません。
 中には広告がない場合もありますが、還元が1ポイントか数ポイント程度であることが少なくありません。そして、そのポイントに有効期限を設定します。
 電気代と通信代を払っているにも関わらず、利用者はただでもらったものと認識しています。そして、ただであっても、そのポイントが消滅するときにはもったいないという感情を起こすことができます。
 1ヶ月ゲームをやったとしてもせいぜい数十か、多くても数百ポイントですが、それを使い切りたいという願望を引き出すことができます。すると、消費者は必ずしも必要としていなくても買い物をします。
 えびで鯛を釣るということわざがありますが、1ポイントであればプランクトンくらいでしょうか。例えばそれでジュース1本を買わせることに成功すれば数十円か百数十円程度ですので小エビ程度だとは思うものの、需要の創出に成功しています。
 ただより高いものはないと言われますが、本当にその消費が必要なのかは考える必要があるでしょう。
 そもそも、毎日そのサイトにアクセスして、どれだけの時間を無駄にしているのかも考えるべきです。
 かつてはポイントは死蔵ポイントが収益源だと言われました。しかしそれは最終目的ではありません。セゾンカード(当時)が永久不滅ポイントなるものを発明することで、死蔵もいいけれど、ポイントに感心を持ち続けてもらうことにビジネスチャンスがあることにみなが気づいたのです。
 本来は情報収集と分析をしようとしていました。しかし、個人情報保護の壁もあり、ビッグデータは市場の期待ほどは活用されていません。もし活用されているならTポイントは一人勝ちだったはずです、Pontaはもっと普及してよかったはずです。しかし、そこから離脱する加盟店が相次いでいます。
 例えば大戸屋Pontaから離脱して楽天ポイントに切り替えました。楽天楽天経済圏を作ることを目的としていることが知られています。ポイント事業は長期的な視点で運営されているようです。
 決済サービスとポイントサービスの融合を進めようとしたのが、おさいふPontaWAON Pointカードでした。ポイントカードにお金を貯めることもできるというビジネスモデルでした。しかし、どちらも決済サービスは挫折し、ただのポイントカードに戻っています。
 一方、ポイントコレクターは、ポイントがお得だからやっているわけではありません。かつてはクレジットカードのポイントで3%、2%というものがありましたが、今は1%前後です。今は貯めたいから貯めるという行動になってきています。
 ポイントサービスや、ポイントサービスを行っている決済サービスの間の競争が激しくなっています。そこで、自社に振り向いてもらう手段として様々なクーポンその他の割引企画が打ち出されています。Go To イートにおいては、飲食店検索サイトが自社ポイントを国の補助で配るということまでやってのけました。その前にはマイナポイントもありましたが、どうやら終了してしまったイートよりも延長されるようです。このまま住宅ローン減税のような恒久政策になってしまうかもしれません。国まで動員するのですから、もはや何でもあります。
 PayPay祭りが、セキュリティ事故等は別にしておとがめなしに済んだということで、今後も突然PayPay祭りのようなことが起こりうるでしょう。我々はどこまで付き合えばいいのでしょうか。
 自分を騙しているだけではありますが、わたしは1ポイントを1円に交換するのではなく、コト消費に変換するのがよいと思います。
 例えばJR東日本普通列車グリーン席。車内で客室乗務員にグリーン料金を現金支払いすると千円を超えることがありますが、JREポイントを使うとお買い得感があります。キャンペーンで600ポイント、そして今年2020年にはグリーン車の需要喚起のために1回500ポイントにまで還元率が下がっています。一方向であれば乗り換えがあってもどこまで行っても同じ値段です。
 千円のものを500ポイントで500円に割引するよりは、500円安くグリーン席に座る体験を得たほうが幸せな感じがします。そんな気がするだけなのですが。
 Fintechによって生まれたサービスで、ポイント投資というものが流行っています。端株がもらえても儲からないと思いますが、1ポイントも無駄にせず使い切ったという満足感だけは味わえるような気がします。

薄まるお金

 2020年はコロナで全世界的に経済が止まった。株も大幅に下がった。しかしその後株価は反転し、ニューヨークダウは最安値の1.5倍になり、コロナ前の年初最高値も塗り替えた。

 株価が未来の先行指数だとはいえ、富の創造に先立つ生産がない状態で未来の価値だと言われてもピンとこない。

 価値が膨らんだわけではなく、お金の価値が3分の2に薄まってしまったと考えるのが妥当ではないか。

 せっせと預金に励んでいる人や、確定拠出年金の投資先を預金や保険にしている人は、貯蔵している酒をせっせと水割りにしているようなものだ。ウィスキーなら日本人は飲むかもしれないが、日本酒やワインの水割りはおいしそうではない。単に薄まるだけでなく、価値のないものになってしまっているかもしれない。

東京中央銀行に見える

 堺雅人さんが銀行のテレビコマーシャルに出て銀行員役をやっている。

 半沢直樹を思い出してしまう。そして、この銀行は東京中央銀行のイメージを自行に被らせていいのだろうか。

 傘をさしているシーンは、大和田が雨の日に半沢ねじから傘を取り上げたシーンを思い出してしまう。

 行内構想を繰り広げていたことで、半沢自身には好印象でも、東京中央銀行に対するものではない。最後は不祥事が明るみになり、頭取辞任にまで発展してしまった。

 半沢花であればまだいいとは思うんだけど。

もう新たに言うことはない

 小池都知事が、今度は5つの小と言い始めました。
 ヨーロッパ伝来の第2波の頃はやたら強気だったのですが、今は公の人は大きな声で自粛しろと言えなくなりました。それで、会食はいいけれどやり方を気を付けてねと言うようになりました。
 フジテレビはニュースで「基本の反復」だと解説しました。
 ニュースが新しいことを伝えなくなったら、newsではなくoldsです。そして、人に不快感を振りまくだけなのであれば、余計な言及はいらないのではないかと思います。

 そもそも、ウィルスの感染を生活習慣だけで人為的に制御できると考える方がおかしいです。神にでもなったつもりでしょうか。ウィルスが出る度に生活様式を変えたら、ウィルスは空気感染や水感染を狙ってきます。その時は防毒マスクや、水浄化装置を配るのでしょうか。
 ある程度感染が広まるのは仕方がないとして、受け入れ態勢を整えるだけなのではないでしょうか。それをしないから市民に呼び掛けて仕事をしたつもりになるのです。医療関係者を集めて会議をしている場面などがテレビで流されますが、あの会議をやったら何のいいことがあるのでしょうか。もはや、気を付けましょう、気を付けましょうとしか言わなくなりました。
 やがては収束するか、忘れられていくことが確実ですから、マスコミと政治家としては介入したくなる気持ちもわかります。使命感と自己肯定感が満たされるし、自らの手柄とすることもできるでしょう。鳥インフルエンザのときに、東国原宮崎県知事(当時)が奮闘されていたと思います。大量の殺処分などは必要なことだったと心の底から思いますが、あれを見た政治家たちは学んだのだと思います。

誰かを不幸にすれば自分は幸せになれると。

 他人の不幸は蜜の味というのは、マスコミだけの特権であり、政治家が同じことをすると批判の的にされるリスクがありました。ところが、感染症対策というのは、例外的に自分の権限で他人を攻撃できるのです。
 みんなにマスクをさせて、飲食店をつぶしていけば、確実に自分たちが幸せになれるのです。恨まれることを心配する必要はありません。

私たちは正義である。裁判されても負けっこない。

ただ、あまりにも実害が大きすぎるでしょう。