個人情報保護の終わり

 日本における個人情報保護法制は、新型コロナにおける自治体の無自覚により完全に死んだ。
 個人情報保護法というのは、個人情報を保護しながら、利活用を進めましょうというのが立法趣旨と理解している。
 当初は、学校や町内会で連絡網が作られないなど、とにかく見せるのを止めるという方向に進み、おかしな運用が目についた。
 ビッグデータ活用の時代に入り、実名さえ外せば何をしても自由だと誤解する企業活動に対しては批判が相次いた。Suicaの履歴情報を日立に渡そうとして糾弾されたJR東日本は、その後、電子マネーのシェアを確保したにもかかわらず履歴情報をうまく活用できず、児童生徒が自動改札を通ったときに保護者にリアルタイム通知するサービスくらいしか実現できていない。
 コロナの接触確認アプリについては、そもそも個人情報を収集しないというポリシーが貫かれ、ようやく個人情報を保護しながらうまく人と人とで情報交換をするやり方について経験を重ねてきたところだ。ちなみに、アプリ自体の有効性については疑問が残るがそれはおいておく。
 個人情報保護が実現しないと、何が問題なのか。それは、個人情報が漏れると恥ずかしいということだけではなく、他人の行為によって経済的被害を受けたり、人生が狂ったりすることがあるからである。

自治体による積極的な情報暴露

 ところが、コロナ禍では、山梨県、埼玉県、岩手県などが感染者の情報を記者会見で堂々と晒すという事案が発生し、感染者やその関係者が中傷に遭うという事件が発生している。個人情報を晒すことに公益上の理由はない。個人情報をそのまま公開しなくても自治体による注意喚起は成立したからである。公共団体である自治体自らが芸能人のゴシップを得意とする週刊誌のごとく個人情報を積極的に開示してしまった。病歴情報はセンシティブ情報または機微情報と言われ、個人情報の中でも特に高度の保護が必要とされるものに属する。
 8月1日の各社報道(引用は朝日新聞・HUFFPOST)

達増拓也知事は31日の会見で、感染者へのバッシングが懸念されることについて、「犯罪にあたる場合もある。厳格に臨む意味で、(中傷に対しては)鬼になる必要がある」と強調した。被害者支援のため、特定の個人や企業などをネット上で中傷・差別などしている画面を保存する動きもあると指摘し、県でも「同様の対応を検討している」と述べた。

 鬼になるとか言っているが、主犯は中傷をした者ではなく、岩手県庁だ。会社の帰り道に酔っ払って機密情報をカバンごとなくしてもれたら、かばんをなくした人が責任を負う。機密情報が社外の個人情報であれば会社も責任を追う。今回の事案は、岩手県自らが感染者の行動を細かくかつ意図的に暴露したのである。ごめんなさいが最初に来るべきではないのか。
 感染者が、県外で何をした、県内に帰って何をした*1、といった行動履歴を地方公共団体が開示する公益上の理由がわからない。接触した人に発表内容を聞いてもらって、不安な人が名乗り出ることを期待したのか。県庁が隠し事をしないことで安心を与えようとしたか。両方ともそのようには機能しないと思う。こんな情報を開示しても、記者から「感染者の情報は把握していないのか、なぜ公表しないのか」という質問を回避し、会見を早く打ち切って帰れることを除いて効果はない。
 勤務先企業のWebサイトがダウンしたり、電話やメールが殺到したりしているという。もしかしたら感染者は勤務先に居づらくなるかもしれない。個人情報漏洩が招いた悪影響でこれ以上のものはあるだろうか。しかし、刑事罰もある行政機関個人情報保護法において県庁や知事は責任を追求されることもなく、あたかも正義のように振る舞う。これは個人情報保護法制の形骸化と言わざるを得ない。もっとも当事者を守らなければならないシーンで何ら歯止めになっていないのだから。
 こういうことを平気でする役所は、公務員の不祥事に対して今後一切「個人情報保護のため」と言ってはいけない。役所の利益になる暴露は推進し、役所の不利益になる情報開示は控える、というのはおかしい。
 マスコミも嬉々として報道のふりをして集団リンチに養分を与える。「感染者のプライバシー保護のため、感染者の行動経路は控えさせていただきました」というテレビや新聞がどこかにあっただろうか。
 実名さえ伏せればプライバシーは保たれるというのはひどい誤解であり、JR東日本の例で議論され尽くしている。また、今回もすでにネット民によって個人が特定されてしまった。実名を伏せてもプライバシーは保たれないことを理解してやったのであれば、わたしは犯罪に近いのではないかと思う。
 各自治体の発表には、こういうことをするのは良くないことですと注意喚起する意図があったのだと思う。そのときに実例を使うというのは、そいつの人生は終わってもいいという悪意がなければできることではない。岩手県の感染者が、関東地方に出かけなければ岩手県庁の仕事は発生しなかったたかもしれないが、それも含め仕事は仕事である。コロナ対応による過労の腹いせを一市民にぶつけるのはよくない。
 個人を守ろうというそもそもの目的をそっちのけで、パソコンのID管理や、データの暗号化などの機密保護なんかやったところで、同じような悲劇は繰り返されるだろう。

感染拡大防止にも悪影響

 勤務先企業の話を重く受け止めなければならない。

お客様の不安を考え公表したが、感染した個人や他の社員、その家族にも不利益が生じている。コロナになったらこうなるんだとわかった。なってはいけないんだと

 正直に告白したらさらされるということが市民の共通理解になったらどういうことが起こるか。

  • 感染しても重症化するまで伏せる者が現れる
  • 症状を伏せているので、仕事があれば普通に通勤するし勤務先に滞在する者も現れる
  • 症状を伏せているので、来客や取引先の人に会う者も現れる
  • 感染が明るみになっても感染経路について正しい申告をしない者が現れる

 正直に告白したら会社人生が終わったり、個人事業主であったら廃業の危機だったりする。弱い大人はこのように行動するしかない。これではウィルス保有者の早期隔離を期待できないし、感染者を起点としたクラスター追跡もできない。
 つまり、個人情報の無自覚な暴露は、個人情報隠蔽につながり、感染拡大を引き起こす。山梨県や埼玉県や岩手県は、感染拡大希望勢力だということだ。
 感染者がどんなにやんちゃな行動をしようとも、その人の行動はセンシティブ情報として十分に保護してもらわなければ困る。やんちゃをした個人も社会的名誉や仕事を失うまでの罪はないと思うし、本人の勤務先の従業員の家族まで被害を受けている。個人情報保護は個人だけのためならずである。
 エイズのときは、HIVウィルスの保有者がどんな行動をして、どのように濃厚接触したかどうかについて暴露する公共機関・報道機関はひとつもなかった。薬害が問題になったときには同性愛者でなくても感染したことが報道されたが、その言い回しには明らかに同性愛者への偏見があった。とはいえ、同性愛者個人の具体的な行動にまで踏み込んで暴露を試みる者はいなかった。
 ところが、新型コロナでは、感染者が公共交通機関を使いました、○○施設に行きましたとやってしまっている。HIVより感染力が強いから緊急性があると言い訳するつもりだろうか。ただ、緊急だろうがなかろうが、上記の通り暴露による効果はほとんどないのである。

*1:報道されているので今更隠しても仕方がないが、暴露勢力と同じと思われても困るので抽象的に書く