木を見て森を見られない自粛派

 新型コロナウイルス関連政策において、非常事態宣言が効かないという空気が生まれつつある中、2021年7月16日に尾身会長が記者会見を開催。
 人流抑制が効果的であるということを必死になって主張している。
 オリンピック連休においてできるだけ人を引きこもりにさせなければならないという仮説を目的としてとらえ、これを何としてでも実現しなければならないという使命感に満ち溢れている姿が滑稽である。

リスク認識が正しいのか

 自粛派陣営にとっては、第1回緊急事態宣言によって都会の街角から人が消えたことが成功体験になっていて、その再現を夢見ている。
 緊急事態宣言には効果を疑問視する声があるが、以下の2つの指摘に対して有効な反論が見当たらない。

  • 全国一律の要請になっていない最近の宣言下においては、宣言の対象県と経済圏を共有している隣県において感染推移に有意差が見られない。
  • いずれの宣言も宣言発出前後にPCR陽性者数のピークを迎えているので、ウイルス暴露のピークは宣言発出前だった。下げトレンドに転じたきっかけは宣言ではない。

 これに対して、自粛派は直接の反論は避けながらも2つの説明を試みている。

  • 海を隔てた沖縄の陽性者数の推移が、本州の推移とリンクしている。これは県外移動による感染拡大によるものだ。
  • 飲食による感染リスクは高いことが統計によって明らかになっている。

 沖縄については、東京などと実行再生産数が全然リンクしていない。陽性者数の推移と比べても意味はないのではないか。
 厄介なのは、感染リスクの話。飲んで騒げばリスクが高いのは誰もが理解していると思う。全く人と会わず、かつ人が触ったものに触れないことが最も安全であることは疑いようがないだろう。ここでは感染対策をすれば大丈夫とか、静かに飲めばいいというようなことは言わない。
 それでも、飲食への規制だけでは意味がないと思う。では、まずこの飲食リスクについて取り上げよう。
 行政当局または専門家たちが敵視していそうな、このようなペルソナを設定する。

  • 風邪(新型コロナウイルス含む)の流行期
  • 健康な若者
  • 中小企業で内勤する事務職
  • 家族と同居
  • 勤め帰りに酔って騒ぐ


 尾身会長の出した資料によれば、飲んで騒ぐと5倍リスクが高いという。それを図1のようにイメージするから誤った意思決定になってしまう。最近の若者という想定であれば一日24時間のうちのたかが2~3時間の話である。しかし、その数倍の時間、狭い部屋で飲み物を飲みながら仕事をしている時間の方が長い。感染リスクを語るなら時間の長さは重要であろう。道ですれ違うだけよりも、風邪を引いた人の隣で長く仕事をしている方が移されやすいと思う。わたしは図2のように理解している。マスクは完璧につければ効果があるかもしれないが、マスクをつけた人が感染している事実、マスクを完璧に長時間つけることは難しいという現実、医療クラスターが頻発していた事実を踏まえると、マスクでOKと認めるのは無理があると思う*1。なので図2からはマスク効果は外す。なお、上述のように感染対策の有無や飲み方の違いはいったん棚上げするので5倍の尺は変えないでおく。
 現在の流行の一番の感染個所は家庭内であるということが明らかになっている。しかも就寝中はマスクはしていないだけではなく、隣で寝ている人のせきなどに無防備であり、換気より防犯を優先する人は少なくないのではないか。
 感染リスクがあるとして居酒屋と満員電車ばかり取り上げるのは思いつきでしかない。一人暮らしの引きこもりであったとしても、たまにはスーパーコンビニに行かなければならないのだから毎日のようにリスクにはさらされ、流行期においては保守的に考えて「閾値は常に超えている」と考えるべきではないかと思う。そんなときに「朝まで飲むのはやめましょう」というのは理解できる*2が、普通の飲み会を制限したくらいでは閾値以下までリスクが下がることはないのである。
 閾値以下まで下げたいのであれば、全員が個室に閉じこもって座禅かテレビ鑑賞にふけるという強固なロックダウンをやる必要があるが、「誰が人に食料を配るのか」「その食料を買うお金はどこから湧いてくるのか」の2つをはっきりしなければやることはできない。

人流抑制は正しいのか

 若者が全員、図2のような生活をしているわけではない。また、毎日飲んでいる人もいるけれど、そうでない人だってたくさんいる。一人暮らしの人は一定数いるので、深夜はリスクが少ないかもしれないが、一人暮らしは寂しいので仲間と部屋飲みをしている人だっている。
 図2のグラフを、乳児からお年寄りまで、国民全員分足し合わせる。

すると、個人が外で飲んだかどうかというのは関係なくて、「多くの人は朝起きて、昼に仕事か勉強をして、夜に寝る」という最大公約数的な特徴しか現れなくなる。一定数は外で飲むので影響皆無とは言わないが、わずかな影響に過ぎない。このわずかな影響を取り上げて、「協力金はいつ払うか知らないけれど、とりあえず仕事を止めろ」というのは政策として間違っていないだろうか。たかだか5倍しか変わらないのである。個人レベルで5倍にひるむのであれば、それは個人で控えればいいこと。重要な商談の前日は早く寝ましょうとか、従来と同じでよかろう。社会全体で自粛しましょうというほどの有意差ではない。
 東京キー局の場合、渋谷のスクランブル交差点や、品川駅港南口を定点カメラで映し、携帯電話会社のGPS情報を使って人の動きが増えた減ったと大騒ぎしているが、これもおかしい。人流抑制を信じる人たちの頭の中は、たぶん図4のような世界になっている。

 テレビで紹介されるような人流で、社会全体の人の動きを理解するのは可能だろうか。風邪のピークとなる真冬に、何時間、外にいるだろうかと自分に問うてみたらいい。「わたしは寒波が大好きで、半日以上は外で暮らすのが日常です」という人は少ないと思う。都会だったら自動車で移動したり、地下街を歩くことを好むと思う。屋外やバイクで仕事をしている人や、マラソンをする人はたくさんいるけれど、世の中の大半の人は定点カメラに映る場所には「長居」しない。定点カメラもGPS情報もその瞬間の情報を切り取っている。図2のグラフと同じように時間×場所で考えてみたらいい。
 夜寝ている人が朝起きてどういう動きをして、どこに長居をするかを割合でイメージすれば、図5のように考えるのが自然ではないか。人流が減ったといっている人たち、この図を見て何を喜ぶべきなのだろうか。
 首都圏では千万人単位の人々が通勤して人と会っている。同じような規模の人たちが食料の買い出しまたは配達を受けている。このような大きな動きを無視して、駅前の人出が増えた減った、野球場の観客が増えた減ったと騒いだところで大勢は影響ないのである。確かに第1回緊急事態宣言では人出が減ったと思っているし、わたしにも気持ちは理解できる。ただ、タケコプターをつけて上から眺めたわけでもないし、都内ではドローンも飛ばしづらい。地上に足をつけて立っていて、本当に千万人単位の人々の動きを見たというのだろうか。通勤ラッシュや東京ドームだったらせいぜい数万人であろう。数万人なんて誤差の範囲である。
 だから音楽イベントの中止も、オリンピックの無観客も意味がない。
 度重なる要請で減ったと思われし数万人は、全員引きこもっているわけではない。近所のスーパー、コンビニで買い物をし、公園、河川敷で散歩をする。他人と接触する場所が変わっただけである。なお、住宅地の徘徊はGPSのマスデータでは捕捉できない。
 大雨や台風といった自然の猛威でさえ、人々を家に縛り付けられるのはせいぜい数日。長期化すれば人々は外に出たいという欲求を高めてしまう。
 病気やけがは外に出ることをあきらめさせたり、おっくうにさせたりする。もし国民総引きこもりが政策で成功するのだとしたら、具体的な症状が出ている、何らかの中毒か病気である。今、行政、マスコミ、医療利権が行っているのは、煽って人々を精神的に追い詰めることである。公衆衛生や人々の健康が二の次になっているところが滑稽である。
 東京ディズニーリゾートの隣に浦安市運動公園という公園がある。オリエンタルランドは「千葉県の要請に従って入場者数を減らしました」「完全予約制にしました」ということにしたが、隣の運動公園は大混雑だったという。年間パスポートを持っていて普段はディズニーを満喫している市民を道路はさんで隣に動かしただけである。無料駐車場には他県のナンバープレートが目立っていたという報告もある。せっかく浦安まで来たので、入場はできなかったが寄っていこうということだったのだろうか。運動公園はその名の通り野球場や体育館があるのだが、コロナのために全部閉鎖。すると、公園の中でも人々をさらに狭いオープンスペースに押し込めるということが行われていた。千葉県は民間企業に無言の圧力をかけ、民間企業は地元の市にそれを転嫁する形になった。ゴミ屋敷に住む住民が、夜寝る時だけ周りのごみを寄せて寝場所を作るというのとやっていることは同じ。これが人流抑制政策の縮図になっていて趣深い。雨が降ればこの人々はショッピングセンターに向かう。ますます密を誘発する。
 人流抑制が感染拡大防止策ではなく、感染拡大策になっていた疑いがある。だから、テレビの言うことを信じる人ががんばって引きこもりをしたところで、差し引きゼロか、それ以下なので意味がない。
 国税庁による、飲食店の酒類卸に対する謎要請(のちに撤回)において、「結局、締め付けをやっても意味ないよね」「近くの酒屋で買い漁ればいいだけだもんね」という話を聞いて、人々がようやく気づいてくれたのではないかと思った。2020年からやっている第1回緊急事態宣言以来、ほとんどの政策が「やっても意味ないよね」なのである。
 自粛要請が、「サービス業を殺して感染症病棟を救うのか」「感染症病棟を犠牲にして社会経済を維持するのか」の選択で、いわゆるトロッコ問題であると解説されてきた。わたしも初めはそう思っていたのだが、どうやらどちらも感染症病棟を救わないようである。意味がないことをして人々を経済苦に押しやったということである。多少はやった方がましだったのでは、というのは単なる願望であり、現実は異なる。
 ただし、完全にだめということではない。普及率が低いものの、テレワークが一部の業種や職種で認められるようになったことは、多少は人の動きに影響を与えている。大学の講義、就職面接がオンラインになったことについては「これで授業料を全額取るのか」「これで他人を評価していいのか」という別の課題はあるものの、人の動きを変えたという意味では無視できない影響が認められる。仕事や聴講が成立する人は家でやったらいいという仮説は成り立つかもしれない。ただ、人間の心と体は毎日外に出ず、画面を見ながら孤独に過ごすようにはできていない。健康に生きる、社会生活を営む、人と助け合って生きていくという目的においてすべてがオンラインでよいとは言えないだろう。
 通勤電車は3割ほど利用者数が減っている。減った分は勤務先や大学そばの飲食店から地元のコンビニに移しているだけではあるが、多くの時間をパソコンの前に人を縛り付ける効果はある程度認められると思われる。
 これと同じようなことができないか。そう、それはオリンピックの開催である。無観客を止めたとしても、人出は数万人である。その数万人は普段、会社や学校に行っている人たちの行先が変わるだけなのである。ただし観客のような「目に見える人込み」はすべて誤差である。視聴率50%、60%相当の人たちをテレビの前に縛り付けることができれば効果は絶大である。最近はスマートフォンでも映像を見られるから、普段はまじめに仕事をしている人たちや、テレビがない場所にいる人たちも重要な試合のときは一瞬画面にくぎ付けになると思われる。ひと試合数分でも、数千万人であれば、社会全体で高い接触抑制効果を生む。

オリンピック中止以外考えられないとか言っている人たちこそが考えられない。

何も人の動きを見ていない。イベントは悪だと思い込んでしまっている。

マクロとミクロ

 ひとりの個人が支出を抑えると、その家計に限っては純資産は増える。しかし、国民全員が消費を渋ると、国民総生産が減って、収入は減る。デフレになり不況になる。マクロとミクロとで逆のことが起こる「合成の誤謬」が起こるのだが、今般の狂ったウイルス政策では「ひとりひとりが頑張れば、国民全体で大きな力になる」という「元気玉理論」が教義のようになっていて、信者は誰一人疑おうとしない。オリンピック観戦のように全員を具体的に同じ方向に動かすようなものでなければ元気玉理論は成立できない。自粛によって単に行動の選択肢を奪うだけでは、人は別の形で接触を続けるだけである。
 ひとりひとりがちょっと我慢したところで大勢には影響を与えない。大衆が自粛を無視するようになった今日ではこの傾向が色濃く出るようになっている。
 いろいろ図にしてみた*3が、どうしたら自粛大好きな方々とイメージを共有できるだろうか。高橋洋一さんのさざ波グラフを見てもわからない人たちに伝える方法はないものか。

*1:マスクは効かないと言っている人たちと一緒にしないでほしい。N95マスクを完璧に装着した人がいれば、その人のリスクは抑えられていると思う。飲食店で調理に従事する人は虫や髪の毛と同じように、鼻や口から出た飛沫も混入しないようにした方がいいとは思う。ただ、ミクロとマクロは違う。わたしは、マスクを世間の空気ではやらすことに成功したものの、社会全体として制御する機能は有していない、と言っているだけだ。リスクが一切ないなら神社のお守りのように持っていればいいと思うが、熱中症のリスクや、人の顔を見ずに育つ乳幼児への影響などが実際に指摘されているので、社会的に意味がないものを社会的に続ける意味はないと思っている。もちろんつけたい人の自由は尊重する。

*2:体の抵抗力の低下を翌日まで引きずりますからね

*3:調べたわけではないので、グラフの尺はいい加減である。申し訳ない