ネットへの規制には反対

2015年6月22日のTVタックルはおもしろかった。ひろゆき氏と堀江さんが紀藤弁護士らを論破していた。
規制賛成派は、規制によって少しでもネット上の暴力が抑制されると言っている。規制で取り締まるのは少しも抑制にはならない。ネットの暴力をしようという動機が解消されることはなく、攻撃の形が変わるだけだ。
 実名制なんてとんでもない。実名を渡すほどネットの管理者は信頼できるのか。マイナンバーでは日本年金機構の情報漏洩が懸念されたが、インターネット全体が日本年金機構を上回る信頼性を確保できるということか。ネット・オークションで本人確認をするというのは、有名なサイトだからまあ仕方がないかということでみんなが応じているだけで、信頼しているわけではない。著名な専門家であっても個人情報保護を曲解しているような現状で、発言するためにはまずは実名を名乗るというのはインターネットの世界を著しく萎縮させる。

  • 悪人は偽名を使い匿名を維持し、善人は実名をさらして悪人による悪用を推進する。
  • 発言履歴を管理者が管理するということになる。

ネットでさらす行為は、さらした情報も消せないが、さらしたという事実も消せない。逆探知されたら今度はさらされる側になるかもしれない。暴力を振るったら自分に返ってくるかもしれないということを教えた方がよほど効果的だ。
暴力的な書き込みをするのも見るのもかっこわるいという意識が広まれば、書いたところで読まれなくなると思う。いじめの書き込みをするのをもし見てしまったら、書いた人のことを哀れるようになればいいと思う。規制派の人々はそんなことは理想論であり、現実には被害が起こっていると反論するかもしれないが、これは防止策ではなく本当の意味での100が80ぐらいになる緩和策でしかないことはわたしも理解している。ただ、規制は100が100のままかもしれないという危惧を持っている。
規制すると役所の対応予算が必要だが、堀江さんが捜査能力を高めるべきだという主張には反応が薄い。規制には警察能力の強化が不可欠だ。海外のサーバー管理者に国内法が及ばないという指摘に対して、国内で起こったことを取り締まればいいという説明があった。それはすなわちネットいじめをした人を捕まえるということではないか。
賛成派が反対派の主張に何一つ反論できていなかったのが印象に残った。

秩序維持のために誰かの負担を求めるのは難しい

賛成派は、管理者に応分の負担を要求しているようである。堀江さんやひろゆき氏が悪いかのような言い方をする場面もあった。ネットの社会は個人でも大きな力を発揮することがあるので、それで影響力のあるふたりに矛先が向かうのだと思うが、これを規制で対応するということになると、大企業も個人も同じ負担をしろということになる。何か影響力のある者、もしくは管理者という存在を仮想敵とみなして法を適用するという考え方がネットにそぐわない。弱い個人は楽しく自由に使えるけれど、強い企業はお金や人材を投入しネット社会の安定に貢献しなければならないというのは幻想である。
ただ、何もしなくていいというわけではない。番組で堀江さんが紹介していたような、人手による掲載文の監視や、投稿ボタンを押すと表示される警告はぜひやるべきだ。そのうち、監視は機械化されるかもしれない。