ネットメディアに向かう政治家

2011年1月15日の報道特集。政治家が既存メディアを避けていることを特集。

  • だだ漏れで、すべてありのまま、はじめから終わりまで全部垂れ流しにすることが真実を伝えることになるのか。マスメディア、ジャーナリズムの機能として、(事象の中で)何が重要で何にニュース性があるかについて一定の価値判断が働く局面がある (話し言葉なのため一部加工)
  • 加工されない情報が出るということは、政治家にとって一方的に都合のよいものが伝わる危険性がある
  • 自分の言いたいことが伝わらないから出たくないというのはひ弱
  • 政治家が言いたくないことをさらけ出すことも必要

まだこんなくだらないことを言っているのか。政治家も、一部の国民も、マスメディアが変わらないことに愛想を尽かせてもう頼るのをやめたのである。どうしたらマスコミが良くなるか、という議論ももう終了、手遅れである。もう一切読みません、見ませんということにはならないが、やがて年賀状くらいどうでもよくなり、さらには冠婚葬祭程度でしか使わない電報のようになる可能性は高い。具体的には「たまには論説委員、解説委員の話も聞いてみようか」といった具合になる。
国鉄がなくなったときに、誰も「あんなに赤字を垂れ流した国鉄なんてなければよかった」とは言っていないし、JRになっても使い続ける人は変わらなかった。でも、間違いなく言えるのは経営形態が変わったのである。もう国鉄には戻らないのである。
日本郵政公社がなくなったときに、誰も「郵政省なんてなければよかった」とは言っていないし、日本郵便になっても郵便事業は残った。でも、間違いなく言えるのは経営形態が変わったのである。もう公社には戻らないのである。
日本国憲法が制定されたときに、大日本帝国憲法に対する議論はあったとしても、誰も「憲法なんて作らなければよかった」とは言っていないし、新憲法になっても天皇は残った。でも間違いなく言えるのは日本の政治形態が変わったのである。もう明治憲法には戻らないのである。
そして、
ネットメディアによる取材源への直接アクセスが始まった今、マスコミの寡占独占に対する議論はあったとしても、誰も「NHKや読売新聞がなければよかった」とは言っていないし、新聞・テレビは残る。でも間違いなく言えるのは報道のあり方がかわったのである。もう新聞・テレビが中心の時代は終わったのである。
こういうたとえならばわかってもらえるだろうか。
もうこの先、ジャーナリストが報道権の復古を画策しても、ネットになびく政治家を批判しようとも、それは国労みたいなものである。そろそろ自分たちの立場を理解したらどうか。
金平キャスターは

議題を設定して国民に伝えるという(使命?、機能?)があると思う

というが、そういう機能はスポンサーと時間枠・文字数、組織、記者クラブの制約がある新聞、テレビよりは、制約がないネットで行った方がはるかに合理的である。どうして新聞、テレビでやり続けなければならないのか理由がわからない。制約の中でどう工夫したらいいかこれから論じても意味がない。
そもそも、議題を設定して国民に伝える機能というのは、同じ事象を違う視点で切り取ったり、みんなとは違う事象を取り上げたりすることで発揮してほしいが、あらかじめ記者クラブが事象を限定して、その中で同じようなことを、しかも国民をミスリードするようなことをしている現状を見ると、議論を設定するを放棄したまま伝えていると見なさざるを得ない。
テレビが台頭してきたときに、ラジオは速報性メディアの首位をテレビに譲り渡した。ところが、今の既存メディア対ネットメディアのような対立は起こらなかった。新聞がテレビの経営とソース提供に関与しているからであろう。ところが、ネットにおいて、既存メディアはWebサイトではある程度浸透することに成功したものの、ネット映像ではフリージャーナリストの独壇場でサラリーマン報道組織が関与できる隙間がない。そこに対する焦りが出ているのではないか。
ネットでは、政治家の都合のよいことしか流れない、という主張は筋違いである。取材ソースを編集すれば、都合の悪いことがあぶり出されるのであろうか。取材対象者の都合の悪いことをあぶり出すというのは、取材者の力量の話であって、全部垂れ流しにするか編集するかは全く関係ないことである。その上で、取材対象者が全部出してほしいと言っているのだから、マスコミが中心であり続ける必要はもはやない。
ネットメディアがだだ漏れという認識も誤っている。NHKや民放のニュースはネットでも流されているがわたしはあまり見ない。政党のWebサイトを見れば一方的な主張がたくさん流されているが、それも見ない。ジャーナリストと対談する形式にしているから、「もっといい質問してほしいのに」とか思いながら見るのである。さらには、視聴者がすぐにコメントできるから見るのである。コメンテーターのくだらない意見をだだ漏れしているテレビが批判できることでもない。
小沢議員がメディアから逃げているというのは救いようのない間違いである。ニコニコ動画では、泣きたくなるほどつらいコメントがリアルタイムで投げつけられるのである。ネットメディアに出るのはむしろ覚悟がないとできないことである。
テレビはしばらく市民の娯楽であり続ける。複数のメディアが寡占市場で中である程度事象を絞って提供するというのはあらゆる点で悪いということはない。価値観が多様化する中で、横並びで同じことを多くの市民に伝えるという手段があっても悪くはない。テレビに出ていることが知名度や市場浸透度をはかる基準であり続けてもいい。文化、芸能を発信するには向いているかもしれない。また、ネットはまだまだ、自分で積極的に情報を探す必要がある。何でもいいから何か見たい、聞く物を適当に選んでほしいというニーズはまだある*1。それゆえ、テレビ局がすぐになくなることはない。ただ、政治・経済の世界におけるオピニオンリーダーがそれではいけない。これまではそれ以外に手段がなかったから新聞、テレビに頼るしかなかったが、ネットが代替してくれるならばそれでいいではないか。新聞、テレビで生きているジャーナリストはネットに移行すればいい。
実は金平キャスターはよくわかっていて「従来のメディアとネットメディアを対立的にとして考えるのは決定的に古い」と結論付けていた。ただ「TBSの使命は終わりました。さようなら」と自分から言うわけにはいかないのでこれ以上踏み込んだ論評はできないだろう。本来のジャーナリズムであり続ければ、ある程度これまでの資本力組織力を武器に残り続けられるだろうと思う。検証番組や同時並行取材は予算や取材力が必要である。ネットメディアがカバーしきれていない。がんばっていただきたい。

*1:それゆえ、ラジオは生き残っている