ウィズコロナ

元に戻さないの?

個人批判が目的ではないので、ここではネットで見かけた「有識者」としておきますが、その方が

ウィズコロナは元に戻すことではない

と書いていました。驚きました。

コロナ禍前も「ウィズもろもろウイルス」で、そこに旧型コロナも入っていたことは小学校以上で理科を習っている世界中の人々が知っているわけですね。今でも手やスマホには雑菌ウィルスだらけですって石鹸の広告でやっています。
ただ、ウィズコロナ、という呼び方自体はありませんでした。当たり前だからです。あと、ウィズSARS、ウィズHIVに相当する主張をする人はいませんでした。なんでも大丈夫とは誰も思っていないのです。
2022年になって、自粛派ワクチン派マスク信者も、ようやくウィズコロナという言い方をするようにはなってきました。ただ、それはニューノーマルでしょ、って勝手に定義が変わっているわけです。

これまでも旧型コロナとともに生きてきました。Covid-19もウィズコロナだと思ったのであれば、ウィズもろもろウィルスの「もろもろ」のリストの中にCovid-19もオミクロンも加わったのではないですかね。わたしの中では武漢熱も加わっていますが、最近ウィズコロナだと思ったのであれば少なくても弱毒化したオミクロンはもろもろリストに追加していいんじゃないですかね。
ところがまだ「マスクだ、アルコール消毒だ」とかおっしゃいます。
相変わらず逃げ回っています。
口元の肌荒れ推奨とか、水洗手洗いばっちりでもアルコール強要とか、感染増強策まで織り込み済。それは別の病気になることでコロナを忘れましょうという、コロナパッシングであって、共存ではありません。

人類の限界

人間は津波や台風を無力化したりすることはできない。雷は受け止めることはできるけれど発生したものを検知することしかできない。そういう無力な存在である。ただ、予想はできる。雨なら降らせる技術もある。次第にできることは増えるのだろうか。
ただ、ウィルスの発生場所、量、次の伝搬先については、このコロナ禍でも相変わらず「可能性がある」「可能性がある」の連呼である。可能性なんていったら、あしたは晴れかもしれないし曇りかもしれないし雨かもしれないし、可能性があると言えばすむのと同じでわたしに予想させてほしい。蔓延しない可能性があると言ったらたぶん怒られるのだろうな。つまり、可能性があると言ってほしいのである。
遥か彼方の宇宙から届く電波は観測できるが、地表のウイルスの流れや蔓延の様子はいまだ測定できないのである。感染メカニズムでさえ、体内での侵入のメカニズムはそろそろ決着がつきつつあるようだが、空気感染なのかエアロゾルなのか接触なのか糞口なのかはいわゆる専門家たちが好き勝手なことを言い続けていて、ちゃんと総括していないように見える。
空間除菌メーカーが、空間ウィルス除去をやればいいとも言っていたが、いわゆる専門家たちはとりあえず全否定。確かにまだ研究は必要そうではあるが、基礎研究として続ける価値はないのだろうか。ワクチンと似たり寄ったりだと思うんだけどな。医療業界に関係ないことを勝手にやるなと言っているだけのような気がする。
ところが、どうやって目鼻口に届くか、いつ届くかわからないものに対して「対策」とか言っちゃうわけである。敵の姿はとらえられないが、対策すればみんなが助かるとか言っちゃうわけである。

なお根強い抵抗

ウィズコロナはニューノーマルだと言ってしまう方々は、潔癖症を「進化」と考えています。
潔癖「症」はその名の通り、精神面が独特の状態*1なのだと思うのですが、これを進化とみなしています。
自分の車に土足で乗った人に怒鳴りつけるという行為を聞いても「まあ、そうだよね」ということにしたいわけです。
潔癖症にはいろいろな背景があると思われます。
他人のぬくもりが嫌だ、掃除が嫌だ、病気が怖い、きれいなものが見たい、けがれたくない(汚したくない)、といったものです。
それをなぜか社会規範に応用してしまうのですよね。
「ウィルスの蔓延を防がなければならない、だからウィズコロナでも日本ではマスクは続けるのである。
理由があるから、こっちの勝ち、反ワクチン反マスクが何を言おうが無駄、以上」といった感じでしょうか。

問題点が2つあります。
1.前述したとおり、コントロールできないという問いかけに何一つ答えていないことです。理由があれば何でもするというのであれば、村の生贄、竹槍で鬼畜米英を突き落とす、そして神風特攻隊も何でも手段として肯定されるということになってしまうのです。日照りのために差し出された生娘も、特攻隊員も、効果がないことに命を落とされました。効果があるならやるけれど、原因をコントロールするところまで達していないと言っているわけです。*2
2.かつてのスペイン風邪などでもマスクは流行したようですが、今日のようにウィルス学が進歩した現代でもまた同じことをするということであれば、次にもう一段ウィルスが強化された日が来たときにさらにもう一段潔癖側に向かって階段を上るということです。そして、一段、また一段と上って行ったらどうなるでしょうか。
・一生ロックダウン
・生まれたら脳細胞をコンピューターに移殖、体は牢獄に隔離保存
アバターが社会を動き回り、マッチングしたら、牢獄に問い合わせて体液を取り寄せ、試験管配合して子供を作る
未来は、こちらの方向に行くしかないじゃないですか。ぬくもり、ふれあいというのは野蛮な動物が行うことです。さみしければかつて2020年代に始まったメタバースの中にはペットがたくさん住んでいますよ~っていうことになります。
なぜこれが進化なのかわからないのです。
私は自給自足はしないので、すでに動物らしさがないと言われればそうかもしれません。ただ、コミュニケーションについては情報化社会を迎えてもより深めていく方向だったと思っていました。ただ、それを行き過ぎと思ったのかは知りませんが、口元隠しましょう、会うのはやめましょう、死に目にも会えません、黙って食べましょうなどなど、急にコミュニケーションを破壊する方向に進んでいます。

違います。元に戻すのです。

よいニューノーマルは残そう

リモート会議で満員電車が回避できる、具合が悪かったら休める、といったいいところは残したいです。ただ、出勤強要がなくなっている点については、人を回復させるのではなくてけがれを排除しているところが気になります。

*1:多様性の時代なので異常という表現はふさわしくないと思います

*2:生贄の類は残された人の心には残りました。だから無駄だとか、意味がないというのとは違います