参列お断り

東海道新幹線の700系車両が定期運用から外れていたが、2020年3月に臨時列車としてさよなら運転をする予定だった。ところが、イベント見合わせの流れの中で、運転そのものが中止になったという。
東京の地下鉄日比谷線03系も2月末で営業を終了し、廃車回送。千代田線6000系引退時には騒動になったため、03系ではイベントにするのをやめてしまったようである。
ラストランに鉄道ファンが押しかけて騒ぎになることが社会現象となり、葬式鉄はけしからんと鉄道ファン同士で批判があったのだが、鉄道会社側から参列お断りを突きつけられた形となった。
鉄道会社も人員に余裕がなく、せっかくの商機を盛り上げるだけの体力がないのだろう。観光列車のような希少な車両に集客力があることがわかってはきたが、鉄道網というインフラを活かせず、今後も廃車、縮小、廃線の流れは止まらないようである。ということは、お葬式だらけになることが示唆されたが、セレモニーにはしない。
地域のシンボルだった百貨店が完全閉店するニュースは各地で取り上げられた。従業員がおじぎをするなかシャッターが閉じられる映像がニュースで重宝されていたが、やがて思い入れも薄れてニュースの価値も半減してしまった。
少子化に伴う小中学校の廃校も当たり前。どの街に行っても廃校後の活用施設を見つけることができる。昭和、平成の教育を受けた者は、やがて若い世代との間で「母校」という概念を共有できなくなるだろう。地域に根ざす学校という概念が今後揺らいでいくに違いない。BankingはいるがBankはいらない、というのと同じように、EducationはいるがSchoolはいらないという日が来る。ホリエモンはEducationさえもいらないと言っているくらいなので、学校はひっそり消えていくのではないか。「長年ありがとう、○○小学校さようなら」なんていう行事はなくて「修了式終わりましたか、じゃあ体育館から解体ね。」といった感じ。
限界集落の集落解散式は誰もやってくれない。最後に残ったひとりが病気になって街の病院に入ったらそれでおしまい。
地デジになる前のアナログ放送が停波するときは砂嵐になるところを生で見ていた。地上デジタル放送の終わりは、後継がなく、ひっそり終わると思っている。地デジ化のときは政府の多額のお金を出したし、テレビ局もお金を持っていたので大々的にキャンペーンができたが、地デジが終わるときにはもう誰もお金を出してくれないと思われる。地上波各局よ、これまで感動をありがとう、なんてセレモニーをしてくれる人はたぶんいないんじゃないかな。それくらい、今のテレビは視聴者を大事にしていないと思う。過去のテレビ番組のアーカイブをネットで見て懐かしむ人はいると思うが、昔は良かったね、というだけ。続いてほしいと思ってくれる人はいないのではないか。
世の中、何でも効率がよくなって作るのも壊すものも簡単になった。また、デジタルに残したり好きなときに見たりすることも簡単だ。だから、なくなることについても実感がわかないし、集まって思い出を分かち合うこともいらなくなるのではないかと思う。
ただ、人の死についてもそうなるのですかね。有名人はデジタルになって何度も蘇るし、それなりの人はひっそりといなくなる。