すり替えが反論だと思っている人たち

いくつかテレビ番組を見た。

慰安婦報道

慰安婦報道について論じようとすると、リベラルの方々は「そんなことを言うが、慰安婦がいた事実から目を背けて良いのか」と言い出す。国連で、慰安婦のことを性奴隷と誤解されていることは気を配らなければならないが、どうもそのことを意図しているわけでもないらしい。どうして慰安婦報道の話をしているときに慰安婦の話にすり替えるのか。中には儲けていた慰安婦がいたとも言われるが、それを含めても慰安婦の境遇はかわいそうだったという話に誰も反論はしない。そして、そのことで新たな議論をしても仕方がない*1

捏造と誤報

朝日新聞の捏造について批判すると、朝日対読売・産経の争いに対して中立なマスコミの方々の一部からは、誤報はいつでもどこにでもあることだという話を持ち出してくる。捏造の話をしたいのに、なぜ誤報の話にすり替えるのか。捏造と誤報は違うものである。朝日だけ攻撃しても仕方がないという意見もあるが、朝日以外の他紙も捏造をやったという話は反論側から出てこない*2。それにもかかわらず、「読売も産経も他の分野では誤報を放置したままだ」だとか、「マスコミは時に誤報をするので読者もリテラシーを高めるべきだ」とか、関係ない話が始まる。
反論側の一部は「誤報」は捏造の婉曲表現だと考えているようだが、誤報は、報道内容が事実と異なったという結果に着目した言葉で、捏造は、嘘を作り出すという過程に着目した言葉だ。なぜ過程の話をしたいのに結果の話になるのか。それとも文書を書くことを職業にすると、過程と結果はいっしょになるのか。「短い締め切りの中で文書を作ると、間違いが起こる」なんてことは、マスコミに限らず、言葉や文書を使うすべての仕事で共通の話であり、捏造問題の中でそんな基本的なことを繰り返されても時間の無駄である。
食品工場に例えれば、意図的に生産ラインに毒を混入した者がいると言ったときに、「毎日大量生産しているのだから、たまには不良品が混じることもありまして。そりゃ、消費者のみなさんは不良品0%がいいと思っているでしょうが、難しいんですよ」と言っているようなものだ。言い訳した本人が気づいているのかいないのかわからないが、指摘に対して何も答えていない。
慰安婦の話と誤報の話はもう語り尽くされたことである。一報、慰安婦報道問題と、捏造の問題は当事者を含め問題意識に欠けるし、反論を試みている人たちですら理解していない。一向に国内での論点整理ができていないような気がするが、こんな状態で海外との共通理解できる日が来るのだろうか。

*1:もちろん、再認識は何度してもいいが、ここは正しい、ここは誤りとすりあわせをすべきところは残っていない

*2:彼らが誤報と表現している一部を捏造と置き換えれば捏造の指摘はあるのかもしれないが、朝日ほど長年にわたって継続的に特定の嘘を繰り返し強調してきた例は発見されていないと思う