ファミコンやゲームボーイの世代までの人は、ゲームが架空の世界だと言うことがわかりますが、最近のゲームは映像がとてもリアルです。最初に買ってもらうのがPLAYSTATION 3やXbox 360になる平成のこどもたちは、現実との違いがわかるのでしょうか。
音楽もそうです。すぎやまこういちがゲーム音楽をN響に演奏させた「交響組曲ドラゴンクエスト」をリリースしました。限られた音数の電子音ではなく本物で聞きたいということだったのでしょうが、今ではゲームソフトに収録されている音が生演奏に近づいてきているのでCDは売れないでしょう。ただ、ゲームの音も、CDでさえも本物ではないのです。
暴力的なゲームをやっていると心がすさみ、人と向き合ったり、相手を思いやる気持ちが育たないというような懸念はPTAに任せます。それより、意識しなくても本物か疑似のものかを考えようとするという発想や、考えるための能力自体が失われはしないかが気になります。コミュニケーションというのは、社会やツールが変われば形が変わります。ただ、能力が失われるのは恐ろしいことです。500年後には「昔の人は本物かどうかを脳のどの部分を使って判断し、見極めた後どのような感覚を抱いたのだろうか」とまじめに研究されているかもしれません。
これからの教育は、
本物が何か
を教えてあげることが重要になってくるでしょう。
ただ、自分も本物がいまいちよくわかりません。本物なんて知らなくても生きていける考えもありうるのでしょうか。回転寿司を楽しむには、本物の魚の味など忘れた方がいいかもしれません。でもそう割り切るところまでは至っていません*1。
あるいは「人間そこまで性能悪くできていない。いくら仮想世界が本物らしく見えても、仮想世界と本物の違いを読み取る能力は失われない、むしろ能力が高くなる」という考え方もあるかもしれません。