働けるのと働かされるのとは違う

今でも高給と引き換えにとっても働いている人はいるが、高プロができようができまいが彼らの働き方には変わりがない。社会全体の生産性を上げるには、本来は働けるが強制しないと働かない人に働いてもらわないといけない。しかし、今でも社畜になっている人は、自らの動機か、周りの環境に飲まれてかはさておき働く必要性を自分なりに納得させている人たちだ。社畜を作る環境があるのに社畜にならない人に対して、連続無停止で働けるような制度を作って果たして働くようになるかと言えば極めて疑問である。
すでに社畜の人も「これからはあなたの意欲にかかわらず働かせることが肯定される制度になります」と言われたら極めて激しい違和感を覚えるのではないか。
生産性だ生産性だと散々連呼されてきたにもかかわらず、時間だけを操作する制度が誕生してしまっている。成果で評価するとも言われているが、標準の10倍成果を上げていても20倍迷惑をかけている人みたいな人はいるし、隣の人が成果を上げることを支援した人の貢献は誰も評価してもらえない。完全出来高では企業競争力は最適化されない。成果主義ほど不公平な評価はない。本当に成果主義を信奉するなら独立するしかない。
生産性の高い仕事がおもしろければみんな喜んで働くだろう。働きたいときにはどっぷり働けるが、働かせることには極めて厳格な規制をかける制度設計が労働者にとっては望ましい。下請法よりもさらに厳格に法運用をして、残業を強制させたらその場で110番通報、管理職は現行犯逮捕される。労働基準監督署は不要で、傷害罪のような刑法犯罪にしてしまう。当然、偽装自首残業も取り締まる。
ただこれでは誰も管理職になりたがらない。どうなるのだろう。

管理職不要な会社運営のかたち

予想としては、管理業務が自動化される。社内に仕事と人のマッチングサイトが設けられる。これを3人で成功させたら、3人に報酬を出します、というようなミッションが定義されて、同意した人がそのタスクに参画する。リーダーや管理職が管理するのではなく、参加者の共同管理と相互監視で日常の仕事が流れていく。「期限に間に合いません、残業してください」というような指令は人が出したら逮捕されるので、機械が命令する。
機密保持や研修の手間、企業内アセットの保護を考えると、フリーランスだけで会社を構成するのは難しく、今でいうところの正社員も必要であろう。仕事の募集のかけ方や入り方はフリーランスと変わらなくなる一方で、組織とか上司部下といった概念は忘れられていく。部や課がなくても、かつて部や課がやっていた仕事が市場からのニーズを得られればそれに関わる人は引き続き似たミッションを選び、近いところで仕事をするだろうが、いつ抜けても誰も困らないような仕組みになる。
マッチングサイトから仕事を得ることが楽だと思う人はその会社に居続ける。ただ、会社に払う間接費や、案件発掘作業費の控除率の高さを普通のメンバーでも意識するようになるので、どこに払っているのかわからない控除が気にくわなければ独立していくだろう。結果的に雇用の流動性も高まる。製品開発や案件発掘作業は複数のプロジェクトでプールされて、製品開発の作業を行う人の報酬を支えることになる。人事労務総務なども同じ。
ただ、これも完全ではない。外部からの発注にしたがってタスクを定義することは機械化できる。しかし、個人の創意工夫でタスクが作られることがなくなってしまう。創意工夫のコンテストを報酬つきのタスクにする必要があるが、その成果は誰かが評価しないと報酬を出せない。未だわたしの中にも完璧な正解はない。