こちらはどちら

このブログ「作文の練習」ではエレベーターに関する日記が多いようだ。
公共施設でバリアフリーを目的としたエレベーターが増えている。中でも、2箇所に扉がついているものは、車椅子の人が後ろ向きに降りる苦労がなくてよい。
ただし、乗ったときとは異なる扉から降りることに気づかない人がいる。車椅子に乗っていない人は、乗ったと同時に降りる準備をしようとして無意識のうちに乗った扉の方を向くからである。あるいは最初から後ろ向きで乗ることもある。
エレベーターの設計者はそのことを知っているから「こちらのドアが開きます」と案内する機能を装備する。*1
この機能の要件は、次のとおりである。

    • 混んでいる庫内でどこに乗っていてもわかりやすいこと。
    • さまざまな身体的条件を考慮していること。

扉の上に表示させるようにするのは理解できる。気づきにくいのが難点だが、機能は目的を果たしている。車椅子の人には高すぎて見えにくいが、そもそも後ろを向かないから問題ない。
しかし、音声で「こちらのドアが開きます」というのはいかがなものか。誰でも聞こえる音量で流すから、庫内で反響してしまい、「こちら」と呼びかけられても、どちらがこちらなのかわからない。すいか割りのときよりも方向がわからない。

そもそも、扉が複数あることに気づいていない人に異なるドアを気づかせる目的を果たせていない可能性がある。
文法的に考えてみよう。近称の指示代名詞である「こちら」は、2つの場合に用いられる。

  • A. 複数ある目標物の候補から、目標物を特定する場合
  • B. 目標物の候補がひとつであり、近くにあるという意味を軽く添える場合

鈴木さんと田中さんがいるときに、手振りを交えながら「こちらは田中さんです。」と紹介する場合はAの使い方で、2人の中からひとりを選んでいる。鈴木さんが遠くにいて、田中さんが近くにいる場合は、近称である特徴を生かして手振りなしでも意味が伝わる。ところが、上野公園にて「こちらは西郷隆盛銅像です。」と紹介する*2とき、周辺に別の銅像があるわけではない。Bの意味で使われている*3
Aの意味で用いる場合、伝える相手の視線を目標物に向けさせる必要がある。鈴木さんと田中さんが並んで立っているときに、指し示さずに「こちら」と言われたら「どちらの方ですか」と聞き返さなければならない。複数候補を理解できなかった人はBの意味だと解釈することがある。どこから声が出ているかわからない中で「こちら」と言われても、乗ったときの扉をさして「これが開くに決まっているだろう」あるいは「ドアから降りるに決まっているだろう」と、ドアが複数ある事実に気づかない人が出てきても仕方がない。
ただ、代替策は限られている。電車のように「右」や「左」とは言えない。扉の色を塗り分けて「赤いドア」「白いドア」と呼び分けても、視覚や色覚に障がいがある人には不親切だし、乗り降りする扉のほかに特別な扉があると想像力を膨らませて迷ってしまう人もいるだろう。
止まる階が2つの場合は

反対側の扉が開きます

と教えてもらうのが一番わかりやすいと思う。「奥のドア」と表現するメーカーもあるが、それもなんとか理解できる。ただし、「地下1階は北側、1階は南側、2階は北側」というように、止まる階が3つ以上の場合はこれらも使えない。扉に「北」「南」と大きく書いて方角で案内するのも混雑した庫内ではわかりにくい。

誰にでもわかりやすいシステムを造るというのは奥が深いものだ。

*1:通勤ラッシュの駅などではひとりが降りる流れに乗れずにせき止めてしまうだけで乗り降りの時間がかなり長引き、この後乗ろうとする人たちが扉の前に滞留してしまう。この機能はおろそかにはできない。

*2:紹介されなくても日本人ならわかるだろう

*3:ちなみにBの場合、相手に識別しにくさを感じさせなければ実際の遠近はそれほど厳格ではない。米粒ほどのにしか見えない遠くの建物をさす場合は「こちら」よりも「あちら」が適している。ただ、函館山の展望台でビデオを撮りながら「こちらが函館の夜景です」と声を吹き込むのは間違いではない。遠くの景色ではあるが「あちら」は使わない