安全の議論

 「飛行機での移動は安全か」「**の国は旅行者にとって安全か」など、安全かどうかという議論はしばしば行われるが、はっきり言ってわかりやすい議論にはならない。

  • 将来の危険が実際に起こるかどうかは、将来になるまでわからない。
  • 将来の危険は、過去の情報をもとに予測しなければならず、現在・未来の情報がわからず過信してしまうのは禁物である。
  • 安全かどうかの情報を知りたい人は「ああいう状態だったらいいだろう」とか「こういう状態ではまずいだろう」という抽象的な評価基準を持っているものだが、情報提供する側がその尺度を知らずに話しても意味がない。
  • 実際には「その中に身をおいて恐怖を感じないかどうか」「身を置く対象は信頼に足るものなのか」「実際にリスクが現実になった場合の低減や移転*1が可能か」など、様々な論点で議論が行われるが、それらは安全かどうかという議論の一部の側面しか見ていないし、話している双方が論点をきちんと合わせられているかどうかが疑問である。

ということで、例えば紛争国に戦争取材しに行きたいジャーナリストに、安全でないことを勧告して出国を思いとどまらせることは難しい。「戦争写真は職業魂を満足させるし、市場価値も高い」という結論の方が、安全の議論よりもはるかにわかりやすいからだ。

安全の分類

 リスクの研究というのは盛んに行われているが、その対極にある「安全」の定義は「危険ではない状態。リスクへの対処ができている状態」と片づけられてしまっていることが多いように思う。ここでは、しっかり安全という言葉が使われる場面を分類してみたいと思う。

(普遍の真理に基づく事実)
「地球はこの世にひとつしかないから、絶対に別の地球とは衝突しない」というような、当たり前のこと。しかし、普通このような事実に対して「安全」かどうかの議論はしないだろうからここからは除外する。
絶対的安全
リスクが起こりようにない状態。「絶対的に安全な道路」とは、交通事故を起こしそうな車輌どころか、人一人通らないような道路を指す*2
具現化した危険からの回避完了
これまでは危険だったが、対策を行ったので今は危険ではなくなったという状態。「ここまで逃げればもう安全だ」というような用法。
自覚の維持
危険が存在することがわかっている状況で、そこに身を置く者が慎重に行動するさま。「安全運転」などの用法がある。
悪意不存在の表明
Aさん(自分)がBさん(相手)からの信頼を得るときなどに、Aさん(自分)にやましい気持ちがないことをBさん(相手)に告知した状態をさす。Aさん(自分)がいくら善人でも、Bさん(相手)が正しく行動しないとBさんのリスクは排除されない。また、相手側(Bさん)は、Aさんが本当に善人であるかを慎重に確かめる必要があるが、その必要性はAさんから伝えられることがない。「このサイトは安全です」「安全な投資です」
信頼の付与
相手が信頼に足る状態であること。「安全な株式投資」は安定企業の株を買うこととされている。
危険回避の投資
万が一を考えて、追加投資を行って全体の帳尻を合わせること。競馬における「安全な買い」は、複勝の馬券で本命を軸に散らすこととされている。ただし、投資者の帳尻が合わなければ意味がないので、自分自身への生命保険につける死亡保障はあまり「安全」という言い方はしないだろう。
危険判断の委託
危険や異常を判断するのに高度な知識や経験を必要とする場合、専門家や機械などに検知や評価を任せた状態。「あの人に見てもらったのだから安全だ」
絶対的安全への期待や誤解
理想だが起こりえない世界。たとえば「犯罪のない街」のことを犯罪者のいない街と定義してしまうようなこと。絶対的安全の判断基準で言えば、犯罪のない街は「人がひとりもいない街」あるいは「犯罪を判断する法自体がない国にある街」なのだが、つい人は善人しかいない街を想像してしまいがちである。それは絶対的安全が保証されていない。
制御可能の断定
あらゆるものが自分の手中にあって、何かが起こっても対処可能であるかどう思いこんでいる状態。「この原発は安全です」というのは、事故が起こっても被害が起こらない原発ではなく、事故を起こさないようにあらかじめ十二分に対策を行っている(か、そういうことになっている)発電所をいう。
被害の限定
攻撃因子はすでに存在するが、脅威が単独では発現する状態ではないと合理的に判断したこと。「有害物質は基準値を下回っていますので安全です」
人手の排除
不確実性が起こりがちなのは人の部分だということに着目し、判断ミスや操作ミス、不正行為を犯しがちな人間の作業が入る余地を排除した状態。「人間の作業が入る余地を排除するための作業」を行うのは結局人間なのだが。「調査結果は機械が集計しますからプライバシーは安全です」
統計上の安全
安全かどうかに根拠はないが、実績としてこれまで危険が発現したことがないこと。「新幹線は、開業以来転覆したことはなくて安全です。」
余裕率の確保
設計や計画に、安全上最低限必要な値を超えた設定を行うこと。そのことが、設計や計画全体に効力を発揮するかわからないが、とりあえず部分的に余裕を持たせて危険を回避したかに見せかけること。「関東大震災級を超える震度の地震に対応した安全設計です」「安全をとって3日確保しましょう」
最大限の努力
危険が迫っている状態で、実現可能なリスク低減策をとること。飛行機事故の時の「安全な姿勢」など。

これらを見ると、リスクと向き合う自分のことばかりに神経が注がれていて、安全かどうかを評価する対象自体をまじめに考えているのは「絶対的安全」だけである。それ以外は、必ずリスクがあるし「最大限の努力」に至っては、ほぼ危険ではないかと言いたくなる。安全だという言葉を聞いたら、その安全がどういう意味なのかを確認する必要がある。

インターネットは安全かどうか

 さて。
 「インターネットは安全かどうか」という古くからの議論がある。具体的に言うと「ネットで買い物をして大丈夫なの?」という質問にどう答えるべきかという話である。
 「わからないよ」と答える人は、上記の内容を理解して話しているか、有識者や雑誌などの情報をもとに言っていることが多い。だいたい、このような感じだろうか。

 昔のコンピューターやワープロは、それをひっくるめてひとつの機械ととらえることができた。だから、人とコンピューターとの間の関係は1対1で考えておけば良かった。ところが、インターネットではたくさんのコンピューターや信頼できない相手がつながっているため、「それらが」安全ではないことがある。

ところが、このことだけでは50点である。でも、問題はそういうことではないだろう。
 たくさんのコンピューターや信頼できない相手が安全かどうかを見分ける技術は確立されている。日々新しい抜け道は出没しているが、それへの対策も迅速に入手できる。たくさんのコンピューターや信頼できない相手に対しては、今やほぼ「安全」というのが常識である。
 ところが、実際には安全ではない。なぜだろう。

 昔のコンピューターやワープロは、それをひっくるめてひとつの機械ととらえることができた。だから、人とコンピューターとの間の関係は1対1で考えておけば良かった。ところが、インターネットではたくさんのコンピューターや信頼できない相手がつながっているため、利用者自らがそれらが安全であるかの判断や、危険が起こっていないかどうかの判断に気を配りつづけなければならないので、知識や自覚が足りなければ安全を保つことができない。人が行うべき判断を補完する技術はあるが、完全ではない。

  • ウィルス検知ソフトのライセンスの有効期限が近づいたら忘れずに更新しなければならない。期限が切れてからでは遅い。
  • 表示されるメッセージを簡単に信じてはいけない。
  • かといって、表示されるメッセージを安易に無視するのもいけない。
  • 実社会同様、人が集まるところには必ず人を騙そうという人がいることを忘れてはならない。
  • 実社会同様、人が集まるところには必ず紛争が起こることを忘れてはならない。
  • 世の中で使われる「安全」という言葉の定義自体があやふやである。
  • 情報発信する人、サーバーを運営する人、プログラムを作る人に間違った知識を持つ者が少なくなく、そういう者が安全と言っても信じてはいけない。
  • 相手の身元は、信頼できる方法で確認しなければならない。

こういうことを初心者に教えなければならない。
 世の中の人は、安全かどうかの議論をするときに「自分は大丈夫か?」という考えでいるのに、専門家の人たちは通信相手の信頼性とか技術の話ばかりする。「あなたが賢くならなければ安全ではありません」と、相手を中心に説明していきたい。

*1:リスクへの対処は、低減、回避、移転、保有の4つとされている。なお、移転とは「保険をかけること」が代表例として有名

*2:1人で歩いていても、つまずいて足をけがするかもしれない