2011年6月、教育テレビがEテレに名称変更

教育テレビの愛称「Eテレ」の「E」はエコロジーのEでもあるという。放送時間短縮(省エネ)以外に何をしていたか知らない。ディスカバリーチャンネルを目指すということか?
日本教育テレビは、今ではクレヨンしんちゃんやロンドンハーツといった、PTAに嫌われる番組を放送している。NHK教育テレビも「教育専門チャンネルがあったというのは本当ですか」と言われるくらい内容を変えていくだろう。
すると、次は放送大学である。数年前に収録した講義を繰り返し使っていて、受講生のニーズに応えているのだろうか。ネットが登場したから何でも変わらなければいけないということもないけれど、報道や世論誘導のエースだったテレビの座が揺らいでいる中、NHKは多チャンネル批判も含め、放送局は悩んでいるんだろうなと思う。放送ではなければできないこと、放送が一番適していることが、ひとつひとつ、確実になくなりつつある。
さて、教育テレビで今注目の番組は、いないいないばぁである。

総合と教育

2つの地上波を使い分けるNHKが、ひとつは「総合」、もうひとつは「教育」という看板を掲げていた。
ところが、教育テレビでは子育てや芸術など、教育に近いものの教育ではない分野の番組も担っている。それゆえ「教育」の看板を下ろすことにしたのだろうが、総合と総合以外の区分けは何か。
記者クラブ問題が指摘され、大手マスコミを疑うことを啓蒙するキャンペーンがネットで繰り広げられている。すると、ニュースも目的を持ってみるためのものではない。ニュースを信頼し、ニュースから得ようとしていては洗脳されてしまう。今時のメディアリテラシーとしてふさわしくない。
ニュースを見るのは決まった時間に、特定のキャスターの声を聞くのが習慣だからかもしれない。時代の変化を待つまでもなく、もともと何が放映されるか直前まで確定していないのに目的意識を持って見ている人は少ない。
自分の家族や知り合い、自社や地元の情報が映っていたら、それを見ることを目的に見るだろう。しかし身内以外は見るのが目的ではない。テレビは暇と静寂を埋めるための道具なのである。あるいは毎日の生活リズムを作るためのメトロノームみたいなものである。なんとなくとか、パソコンの横でついている、そういうメディアである。
民放で放映されている映画も、本当に見たい映画なら上映直後やレンタルDVDですぐ見るだろう。テレビで見るのは「テレビでやるみたいだから何となく見る」という雰囲気になってきている。何ヶ月も前から毎日テレビ欄をチェックして、上映しているのも我慢し、レンタルショップに並んでいるのも我慢して、ようやく*1放送されるのを見るという人は少ない。
そういう意味では、あらかじめ放送が約束されている日本のメジャー映画でさえも、その作品に期待するからではなく、暇と静寂を埋めるために見られているのである。たとえ録画であってもそうである。見終わったら消される。
総合と教育との共通点は、コア視聴層が存在することである。その番組の内容の理解や出演者の視聴を目的として番組を選んでいる。内容や出演者が他局とかぶる場合は、悩んだ末に片方を録画にするであろう。
総合と教育との違いは、マス層の存在である。総合は、なんとなーく、暇と静寂を埋めるために見る人たちが不快にならない番組となっている。いわゆるマスメディアである。教育テレビ にはマス層は存在しない。マス層はチャンネルを変える。英語講座は「まあ、今日は曇っているから英語講座でも見ようか」といってみるものではない。わたしは将棋はわかるが囲碁はわからないので囲碁番組は見ない。クラシックを聴かない人が「たまにはオーケストラ演奏を聴こう」とはならない。
教育テレビは、一部番組ではマスメディアを目指しているが、基本はノンマスメディアであるし、コア層向け総合チャンネルである。CSの専門チャンネルとは違い、特定の趣味やジャンルに特化しているわけではない。でも、どの番組も何らかのコアに向けて放送されている。
高校野球をやっていると、総合テレビのニュースの時間になる。すると、マス向けの総合テレビは高校野球を続け、この時間にどうしてもニュースを見たいコアの人に対して教育番組を中断して教育テレビがニュースを放送する。マスメディア番組の代表のように扱われるニュースであるが、実はNHKもコア向けのニュースをやっているといえる。
総合と教育、ではなく、「NHKマスコア」と「NHKコア」が適切な区分けである。

*1:上映とテレビの時間差が縮まっているが、ここではテレビを期待する人の心理的に「ようやく」という意味