本当にいつでも座席は詰めるべきか?

 今日は、ちょっと遠回りして座って行くことにした。
 中心部のJRの駅で乗ったときはがらがらだったが、そのうち通勤客で混んできた。大きな駅を過ぎたあたりで、自分の周囲は立っている人で埋まっていた。
 前に立っていたおばさんが、わたしのことをたたいて、

あんたが詰めないからみんな困っているでしょ

と言った。
 確かに、立っている人が大勢いるのにわたしの隣には10cmもない程度だけ空いていた。でも、わたしは反対側の人とは詰めて座っていた。わたしは隣の人にもっと詰めるよう体を押しつけるべきだったのだろうか。でもだからといって座れるだけの幅ができるとは思えなかった。そうならとっくに寄せている。

詰めているでしょ。どうしたらいいんですか。

わたしは反論した。そしたらおばさんは黙ってしまった。
 みんなが座れない通勤電車を走らせているのは鉄道会社で、定員超過の危険な状態を容認しているのは行政であり、都会に人が密集しているわたしたちの社会全体の責任である。しかし、たまたま隣に隙間があった人だけが負うべき責任ではない。どうしても言いたいなら、同じ椅子に座っている人全員に同じように言ってほしい。
 通勤電車のロングシートは7人がけが最も多いが、冬に着ぶくれした状態で、7人がけの席に7人座るのは苦痛だと思う。ひとりで2人分使ったり、新聞を広げて読んだり、寝そべったりするのはよくないが、普通に座っている人は無理に詰めることはないのではないか。
 よく、30cmくらい空いていても誰も座らないことがあるが、みんなが遠慮しているわけではなく、座っている人に席を詰めてもらうのが面倒というわけでもない。中には「立っているのが体の鍛練になる」とか「隣の人と体が密着するのが嫌い」とか「寝過ごすと困るので座らない」とかいうこともあるが、たいていは隣の人に多少詰めてもらっても窮屈で疲れるだけだとわかっているから座らないのである。
 さらに言うと、この自己中心主義の人が増えた世の中で、座っている6人全員が協力しあってもう1人座らせるということはあり得ない。たいてい、体格の小さい人か、中央付近に座っている人が、大きい人や、むりやり隙間をこじ開けた人に圧倒されて肩身の狭い思いをするだけである。無理して座らせるのは、不公平を助長しているだけではないか。それでかろうじて座れるのは、何十人といる立ち席の乗客のうちの1人だけである。はっきり言って合理的な譲り合いとは言えない。優先席で体の不自由な人に席を譲ったり、渋滞している道路で、脇道から来た車を入れてあげるのとは訳が違う。最近の車輌で、座る位置にくぼみがあったり、しきりがあったりする椅子では7人座った方がいいと思うが、そうでない場合は、よほど混んでいない限りは6人で座った方がいいと思う。これは全体の乗り心地を考えてのことである。個人のエゴではない。
 こういうことを書くと「窮屈でも座れた方が楽な人はいるのだ」と主張する人がいる。立っている姿勢を維持するだけで大変な人、これは6人とか7人の問題ではなく、座っている人が立って譲るべき話である。そうでなくて、立っていると疲れてしまう人・・・これは申し訳ないが座れる方法を探してもらうしかない。上りが混んでいたら、下りに乗って始発駅まで戻ればいいではないか。始発駅で並ばなければならないというなら、並べばいいではないか。逆方面に乗ると、往復で1時間かかってしまうというのなら、それはそれで仕方がない。山手線だと内回りも外回りも混んでいる時間が多いので使えないが、どう工夫しても立ったまま30分も1時間も乗らなければならない、というのはあまりないと思う。努力と手間を惜しんで「席を詰めろ」などというのは、悪道徳の押しつけである。
 ただ、マナーというのは、特に不合理であったりする。1枚便せんの手紙に白紙を添えたり、ワープロの時代に手書きで年賀状を書いたり。今日会ったおばさんは、「みんなが」困っていると言った。そうだろうか。実は自分が座りたいと思っているだけである。でも、座れない状態がそこにあるとみんなが不愉快になる。だから、みんな窮屈な思いをしてやせ我慢をしてでも譲り合いを実現しましょう、ということのようである。
 それはわかってはいるが、今は、真夏のネクタイを外すなど、マナーよりも合理を追及しようという動きがある。合理と不道徳の識別は難しいけれど、固定観念に縛られた慣習にしがみつくことはないと思う。