字幕を入れる作業は大変だと思うけど、なぜ話した通りに書かないのだろうと思うことがある。
2005年夏の甲子園。高知高校の主将は、繰り上げ出場が決まって宿舎に着いてからの記者会見で(試合を)
楽しんで「・・?・・」
と言った。語尾が小声ではっきりしなかったが、わたしには「楽しんでいきたい」と言ったように聞こえた。明徳義塾の事件で実力以外のところで注目を浴びているが、それでも気負いしないでプレーしたいという意味だろう。
ところが、その発言を流したニュースの画面では、字幕で「楽しみにしたい」と書いてあった。それでは試合が待ち遠しいという意味だ。
日本語は語尾決定性がある言語なので、語尾は大切にしてほしいものだ。野球だったら脚色と呼んでもいいが、政治のニュースで同じことをやったら世論操作になるぞ*1、第四権力よ。
さすがに報道機関の方々はプロなので、一般人がワープロでやるような「話しをする*2」「新機能を内臓する*3」のような変換ミスはあまりない*4。万が一変換ミスをしても、固有名詞だったら確実に訂正とお詫びが入る。きちんと校正しているのだろうし、入力のときに使っている日本語校正ソフトが優秀なのかもしれない。ところがこの手の聞き間違いは、校正者の手を介しても、機械が優秀でも直らない。誤ったままでも絶対に訂正とお詫びがない。
字幕は耳の不自由な人は便利だけれど、まさか間違っているとは思わないだろう。それなのにテレビを見られるようになったと単純に喜んではいないだろか。発言をなぞったように見えても、記者の思い込みが混じっているものだ。