介護の未来

数十年後の介護の世界はどうなっているのだろうか。自分が介護を受けなければならなくなったらどんな生活になるのか。
移民を安く雇えるのではないか、という意見も聞いたが、なぜ相手に世界有数の難解用語である日本語をストレスなく話せるよう指導する自信がない。もしくは高級バイリンガル人材を雇うのは経済的に苦しいのではなかろうか。それであれば自分が英語を話すのだろうか。自動翻訳機があれば用事は伝わるだろうが、思考に用いる言語が異なれば翻訳できないニュアンスの存在を排除できないで、その部分を省略すれば事務連絡をする間柄にしかならない。言葉の問題で悩みたくはない。
生身の人間と、見た目も会話も区別が付かないようなアンドロイドが完成しつつあり、やがて個人でも入手できるようになるかもしれない。数十年後はわからないが、現代の常識に照らして考えると、人形と一緒に暮らしているような感じもしてやや寂しい感じもする。
人間に似ているよりは、愛玩である初代Aiboのようなかわらしい存在が、スマートかつ力持ちになっていっしょに生活上の困難に立ち向かってくれるようになるとうれしい。子どものころに人形を持っていたり、自分や親戚の子どもに対して人形遊びをしたことがあるのではないか。その時の人形が自分が老いた時に日常の世話をしたり話し相手になってくれたりしたらとてもうれしいなと思う。幸い、現代の常識でもペットと暮らしている人に対して、寂しさを紛らわせているのかなと思うことは時々あっても、寂しさをペットで紛らわそうとする変な人という偏見を持たれることはない。
身体の不自由については、パワースーツのようなものを着させられて無理矢理動かすことになるのか、不自由な部位は切り離してしまって、究極には生身の脳は生命維持装置の中で、五感の入出力デバイスだけ外を出歩くようなことになっていたりするかもしれない。だから介護ロボットが介護士の肉体労働に相当する機能を持つようになるのかはわからない。物を持ち上げたり、おむつを交換したりする機能はオプションかもしれない。
介護が必要となる直前に、痛みもなくぽっくり行くのが一番幸せだと思うが、高齢化社会においては最高の死に方が最高の贅沢になるのではなかろうか。介護対象になるのはつらい。