貧富の格差の固定化

 金持ちの子は金持ちで、貧乏人の子は貧乏にならざるを得ないという社会は、国力の衰退を引き起こす。
 ただし、機会の平等が損なわれているという議論はわたしにはよくわからない。どんな社会でも賢い者は生き残るし、運のいい人だっている。
 この話題の問題は教育にあると仮定すると、すぐに

  • 大学に行けないと浮かばれない社会はおかしい
  • 親に余裕がないと塾や家庭教師の費用を負担するのが難しい
  • 金持ちは私立で貧乏人は公立

というような議論に陥るが、それは格差の固定化の議論とはあまり関係ない。平等な社会というのは共産主義国家でも難しかったわけで、理想社会を夢見ても仕方がない。
 わたしが教育で気になるのは別の所にある。
 人間はひとりでも体を鍛えられるのに、どうして集まって運動競技をするのか。それは同じ目的を持つ者同士が集まったり、争う相手がいたりする環境で切磋琢磨することが効率的に上達するし、動機も高まるからだ。 
 小学校はともかく、高校以上の高等教育には「こんなすごい奴がいるんだ」「こんなすばらしい先生がいらっしゃるんだ」と思える環境*1が必要なのである。伝統とかよき先輩もいいけれど、一番大事なのは

優秀な学生・生徒が常に周りにいること

である。
 ところが、入学の条件が学力から財力にすり替わってしまうと、お金の力だけで何となく入れちゃった学生が学内にあふれることになる。勉強はしたくないけど、親が言うとおりに受験テクニックを身につけたら入れてしまったというような者が増えてくる。これはとても危険である。自分で学習への動機を保てない人間が増えるし、そんな人間を見て優秀な人間も勉強しなくなる。
 ここでいう勉強というのは学問だけでなく、部活でも大学におけるサークルでも何でもいいのだが、何かしら自分に影響力を与える人間には出会っておきたいものである。ところが高校や大学がそういう場ではなくなるのは好ましくない。
 名門私立中学・名門私立高校では、よほど高度な教育をしているのではと勘違いしている親がまだいるかもしれない。ところが、一流で授業料が高い学校だからといって、一流の授業をしているとは限らない*2。でも、周りがすごい人ばかりだし、みんな目指しているものを持っているから中くらいの人も一応勉強するのである。そこでたとえ勉強しなかったとしても、勉強している人がどんな生き方をしているか、勉強をしている人がどれだけすごいのかだけは間近で知ることができるのである。また、勉強する意味を見失うことが少ない*3し、勉強する者を茶化したり邪魔したりする人もいないのである。これが勉強をする環境というものである*4
 いい学習環境の中に、お金で入ってきて他人の足を引っ張る者がいては困るのである。
 貧乏人に機会がないことも残念だが、優秀な人を育てる場がなくなること、優秀な人が伸びる力を育てない社会の方が危ういと思う。

 高学歴高収入職業に世襲禁止を適用するしかないだろう*5

一見関係ないように思えるかもしれないが、金の力でいい学校に行った奴が、学歴がいいというだけでそのまま高給取りになることを防ぐのがいいのでは。

*1:すばらしい人がいるということを教えようとしても無駄だし、偉人伝ばかり読ませればいいというものではない。「別世界の人」「雲の上の人」のような言い方があるように、我々は自分が及ばないと思うと自分とは関係ないと思いこむようにできている。探さなくても自然と周りに優秀な人が集まっている状態にすれば「あれ、自分とあまり変わらないんだ」と思ったり、「別の所では自分の方が上だ」と思ったり、「この人のようになりたい」「この人に追いつきたい」と思ったりなど、身近な存在として考えるだろう。だから「環境」という言葉を使っている

*2:話はそれるが、一流かどうかはともかく、受験校と言われる学校における最大のノウハウは学力測定にある。有名予備校の講師みたいな楽しくてためになる授業はできないけれど、そこそこの定期試験問題を自分で作ることができる先生は少なからずいる。だから、生徒は定期試験を無視してまで予備校に通うことはないけれど、受験科目ではない教科の授業は見向きもされないのが現実

*3:「受験があるから」でも「勉強が楽しい」でも「みんながやっているから」でも何でもいいが、「こんなことやっても意味ない」なんてみんなで言い出したら一気に動機が下がる

*4:言うまでもないが、学校紹介パンフレットで強調されているような、立派な校舎や広い校庭、英語が多い時間割の類などは全然関係ない

*5:伝統芸能や伝統工芸、職人の世界は跡を継いでもらって構わない