ひどい制度だが、司法のあり方で議論が沸き起こったのはよかった。裁判所・法務省に任せきりにしないということは重要なことだ。
ただし、世論喚起と引きかえに被害者や被告人の人生を狂わすことになるというのは釈然としない。
建設的な議論をしてほしい
テレビなどで問題点が報じられているが、キャスターやコメンテイターの関心のある切り口でしか取り上げられていないように思う。「市民に死刑が宣告できるのか」という話は聞き飽きた。その問題は最大の課題だとは思うが、そればかり話していると、問題はそれだけなのかと勘違いする人が出てくる。
まずは、問題を一覧できるようにしてほしい。
- そもそも、日本の社会にはどのような陪審制度が望ましいのか、あるいは不要なのか
- 市民はどんな裁判のどんな意志決定に加わるべきか
- なぜ行政訴訟には参加できないのか
- 一審にしか参加できないことはいいのか悪いのか など
- 被害者心理への影響
- 裁判員心理への影響
- 被告人心理への影響
- 職業裁判官負担への影響
- 検察、弁護人への影響
- 社会への影響、量刑の変化
- 裁判員が参加しやすくなる前提が整備されていない問題
- 専門家のスキル不足、
- 裁判員を支援する体制が整備されていない問題
- 心理的不安
などなど
次に、問題があるなら、どうしたら制度を変えることができるのかを話し合う必要があるだろう。国会議員はどう思っているのか。野党は、法が定める制度時期に先駆けて改正案を出せるのか。
納得がいくのかどうかは最重要ではない
どんなに抵抗しても制度は始まると思うので、もし当事者が近くにいたらこのようにアドバイスするだろう・・・
社会の利益は個人の利益が一致しないことがある。裁判員制度は後で見直すから改善されていくと思うが、死刑判決は当事者とっては1回限りである。見直すことが予定されているということは、つまり完全ではないと立法が言い切っている制度なのに、裁判員制度の未成熟を理由に一審の不当性を主張することは難しいのではないか。その観点では社会を良くするための犠牲になっている可能性も否定できない。
ただ、現行制度ならば納得がいくのかといえばそうでもないだろう。どちらがよくてどちらが悪いと比較するのは自由だが、ルールを理由に結果に満足しないというのは潔くない。ルール変更の激しい世界はいくらでもある。その改正が必ずしも有利とは限らないが、その世界のプレイヤーはルールに合わせていこうと努力する。ビジネスでも、スポーツでも。
たまたま今回、裁判の世界でも変更がある。裁判を開いている途中でルール変更があるわけでもないので、条件は検察も弁護人も裁判官も同じ。準備が足りなくても新しいルールに適応していくしかない。
もし、厳しい量刑が下されて納得いかない被告人が現れたとしたら、もしかしたら現行制度で裁判を受けても同じように検察優位で進んだかもしれない。弁護人の力量が足りなかったということだ。
そもそも、裁判という制度自体、被告人にとっては真実に身を委ねるのではなく社会に身柄を預ける制度だ。真実の追求は裁判の目的ではない。もしそうなら永遠に回数制限なく再審請求が認められるべきだ。三審制というのも、3回やれば絶対真実にたどり着きますよという制度ではなく、社会的コストの観点から3回くらいがほどほどですよいうものだ。だから、裁判の仕組みに加わるからには、納得するとかしないとかではなく、社会が下した判断は受け入れざるを得ない。それが法治国家に生きる市民としてのあり方だろう。その前提として、プロの法曹関係者たちは、真実を追求しなければいけないし、当事者を納得させる社会的責務がある*1が、完全とはいかない。裁判員だから納得するとかしないとかという議論はあまり意味がない。
自分が被告人だったらここまで割り切れないけれどね