緊急事態宣言

 マスコミと医師会が緊急事態宣言を待ち望んでいる。
 国土の面積は一定。人口も一定。マクロ政策として特定の場所で蜜を避けるようにコントロールすると、別の場所に人が偏る。小学校の算数をやっていればすぐにわかる話だ。
 人は活動する生命だ。何もせずにはいられない。無理に止めると運動不足になり、食べ過ぎてしまい、ストレスもたまって健康にいいことは全くない。むしろ普段は外で運動することが奨励されているくらいなので、命令にまじめに従う人は体に異常を来し、守らない人は外に出る。無理に止めることで健康になる人は誰もいない。不健康を得る代わりにコロナにならなくてよかったね、ということで慰められる程度のことである。
 自粛派が意図するところは、8割減である。ひとりでも1回でも多く接触機会をつぶせば健康に資するという考え方である。ただし、止められるところは止めようとするので、止められないところと止めるところの境界で必ず現場が苦しむ。よく言われるのが「幼稚園児や小学校低学年の子供を抱える家庭でロックダウンが発生したら親は在宅勤務ができるのか」という話であるがこれは一例にすぎず、発生する境界は無数のパターンが起こりうる。そこに対してすべてケアすることはできないはずだが、みんながロックダウンに応じれば問題ない、応じない者は反省しなさいと思考を止めてしまう。食料や電気水道ガス等ライフライン、警察消防、ごみの収集、そして自粛派の好物である新聞テレビは供給される前提なのである。病院の関係者は通勤してほしい。ところが電車バスも止めてしまえという議論があった。ロックダウンを厳密に適用すれば、首都圏*1には食料流入禁止となるはずだが、そこはロックダウンしなくてもいいと勝手に解釈している。
 「無理に止めるのではなく意識を高く持って控えるのである」というが、政府が施策に介入する理由は何だろうか。要請ばかりするという批判は何に対するものなのだろうか。罰則を求める声があるが、ふざけてルールを破る者と、やむなく破る者と、破る意図がないのに破ってしまった者を公平に成敗できるのだろうか。
 そもそも、マクロで人々をコントロールするという政策自体がばかげている。ルールを適用するということに使う体力は少しでも、今弱い人を保護することに使うべきなのである。街に出て開店している店にペンキをかける時間と歪んだ正義感があるくらいであれば、病院でボランティアでもしてもらった方がよい。ところがこれはやりたくてもできない。2類指定のため医療従事者以外立ち入りできないからだ。へんてこなルールをまず改めるのが政治である。

*1:2021年1月は一都三県と言われている