菅さんの携帯電話値下げ政策を自動車業界に置き換えたら、こうなる

(もちろん日本と似たような国が別の星にあったら、というフィクションです)

 我が国では新内閣が発足し、着任した大臣の記者会見が行われた。経済産業大臣は、重点施策のひとつとして自動車価格の引き下げを掲げた。
 自動車は、自動運転実現に向けた技術革新が進んでいる。高齢化社会においては高齢者の外出手段を確保する重要な手段となることは間違いない。都市部では駐車スペースの確保が課題ではあるものの、今後はシェアリングなど多様な所有のあり方を模索し、全国平均でひとり1台が行き渡るようにこれまでよりも一層普及を進めることが必要とされた。
 一方で、地方ではすでに欠かせない移動手段となっているが、家計の可処分所得が減る中で自動車の支出負担が増している。新首相は経済産業大臣の経験を通じて自動車業界について精通している。大手の自動車産業が高い利益率を確保する中、自動車の本体価格は100万まで下げる余地があると講演などで語っていて、首相から新経済産業大臣に対して直接の指示があったものと考えられる。
 財務省の高官は重要施策に呼応する形で、消費税10%増税時に廃止された自動車重量税の復活について言及した。大きな排気量を持ち、高い本体価格を掲げる自動車に対しては懲罰的に税金を課すことで、首相の政策について税制面から支える狙いがあると見られている。なお、増収が見込まれる税の使いみちについては歳入規模が読めないとして報道関係者の取材に対して明らかにしていない。
 自動車工業会は声明を出し、自動車業界は省エネルギー再生可能エネルギー活用などを通じて社会に貢献し、消費者に対して幅広い選択肢を提供してきたが、この度の本体価格引き下げ政策は環境に対する取り組みを衰退させ、消費者から選択の自由を奪うものとして、政権に対して熟慮を求めた。しかし首相は会見の中で「環境保護は価格がいかようにあろうと自動車に限らずあらゆる製造業としての責務であり、製品単価が安い業界でも取り組んでいる。自動車だけ聖域にはしない」と語った。これについては、製造・物流時にのみ温室効果ガスを排出するものと、使用時に継続して排出するものとでは違うという指摘もあるが、環境保護団体などからは支持する声も寄せられているという。

 世界販売台数1位の国内大手は、研究開発拠点を我が国からアメリカに移転すると発表した。グローバル化の中で国内にとどまっている必然性はなく、また最先端の技術開発及び市場ニーズが近くにある場所の方が人材の獲得がしやすく、世界の販売において引き続きシェアを獲得し続けることができるという判断によるものだった。本社機能の移転については今後の政策を踏まえて慎重に判断するとしながらも、関係筋によれば持株会社を設置し、自動車会社をその子会社に置くことを視野に検討が進められているという情報もあり、多角化を通じて国内自動車販売依存からの脱却を目指すものと見られている。社長は引き続き我が国にとどまる持株会社の指揮を取りながら、アメリカを拠点として自動車事業の指揮を引き続き取る。「我が国にはしばらく帰れないので財界活動はしばらくできないかもしれない。リモートでも会ってもらえるだろうか」と周囲に漏らしている。
 別の大手は、世界最大の自動車レースであるF1からの撤退を発表した。同社はレースを通じて先端技術を獲得して一般向け製品に還元する枠組みが崩れたとし、レースチームの責任者は涙を流しながら「ようやくトップチームに対抗する競争力をつけたところなのに、再び不本意な撤退となってしまい、ファンの皆様には大変申し訳ない」というコメントを発表した。チームは、海外オーナーへの身売りも検討しているというが、チームとして切れ目のない参戦が前提となれば研究拠点及び製造設備を含めた身売りとなるものと見られ、国内技術の流出が強く懸念される事態である。
 また別の大手は、軽自動車へのシフトを加速するため、国内工場の全面閉鎖を決断した。軽自動車はすべて工賃の安い国で製造し輸入することとなる。製造業者としての事業は分社化した上で売却し、高価格帯の乗用車についても輸入という形を取る。「当社は今後は輸入商社として、製造業者としての本体価格引き下げ政策を回避し、これまで通りお客様に自動車を提供できる体制を整える」とした。同社によれば、新政策は一首相の気まぐれではなく、一度起こった流れは元には戻らないと分析している。
 軽自動車であっても近年は安全装備などの付加価値が増え、小型車並みの本体価格で売られてきた。ところが、本体価格引き下げ政策により、100万円とまではいかなかったが、オプションが簡素化された製品を150万円ぎりぎり下回る価格設定とされていることが多くなった。最初の頃は標準装備車が120万程度で、ハイグレードモデルが160万といった価格設定もみられたが、標準装備車は車体番号が登録されているだけで事実上ほとんど生産されていないことが判明し、指導逃れだとして消費者庁による指導が再び入ることになった。価格政策は公正取引委員会の出番かと思われたが、適切な法律がなく、消費者庁による指導が乱発された。その結果、単一グレード150万円が多くの車種で定着した。

 国内ディーラーでは、提携するガソリンスタンドでの給油を無制限無料にするプランも開発されたが、なぜか統計ではガソリンでさえも本体価格の一部として算定され、採用するディーラーは本体価格を高く設定する業者としてメーカーを通じて国に報告された。その結果、価格で差別化することができなくなった。オプション装備を取り付ける整備工場と提携し、新車購入者の送客によって利益を上げるビジネスモデルへの変換に迫られた。
 あるベテランの営業マンは「メーカーオプションで装備されていた方が納期が早いし、客にとっては余計な契約をしなくて済むのだが、なぜか政府は本体価格だけにこだわる。誰にとって嬉しいのかさっぱりわからない。メーカーは今まで通りの利潤を上げているが、メーカーの責任範囲だけ小さくなり、何かあっても魔改造をした消費者のせいだと言わんばかりである。確かに、特需にわく整備工場がいい加減な仕事で粗悪なオプション装着をやっている例もあるらしく、我々としては悩みの種である」と語っている。
 また別のディーラー勤務の男性は「昔は、お客さんに納める車を一所懸命磨き上げて、窓から日が差し込む、ショールームの中で一番見栄えのする所に置いてからお客様に来てもらうんです。平日の方がゆっくり応対できるので、わざわざ休暇を取ってもらうこともありましたね。引き渡し時には、記念品とメッセージカードを渡し、お客様と車を写真にとってから鍵を渡していました。もちろん、少し経ったらお客様に写真を送ることで、接点を保つためなんですが、焼き増しして自分のアルバムにも入れます。購入までいろいろな話をするから、感情移入しちゃうんですよね。でも今は違います。私たちの店かご自宅から、オプション装着をする工場まで送って差し上げるのですが、そこでは工場のおじさんから無造作に鍵を渡されておしまいですもんね。それで、お客様も事務的に、カーナビつけたいから近所の自動車用品店はどこかって聞いてくるんです。その店に行って会員カードを作れば、その後はお客様はその店にしか通わないんです。カーライフのお手伝いをしてあげられないディーラーの存在意義はなんだろうかと思ってしまいます。」と嘆く。
 オプションでは、カラーリングオプションに対する注文が極端に減っているという。「スマホにカバーをかけるような感覚で街の工場が色塗りをするんです。まあ、標準では白1色という車も珍しくないですからね。そんでもって、ボディーをこすって塗装が剥げたのだが、この色の塗装ペンはどこに行けば買えるのかと聞いてくるんです。うちだけでなく、メーカーですら1mmも絡んでいないのだから知りませんてば。」と前述の男性は不満を隠さない。
 一方で、ある工場は商機と見ている。「うちはこれまで個人の修理依頼も引き受けてきたので接客もきちんとする。今のディーラーは提案力も落ち、車のことを何も知らないので中途半端な標準車を渡しておしまいである。20世紀の共産主義国では品質の悪く、画一的な仕様の標準車を国民に使わせていたが、まさにそんな状態かもしれない。本体販売の会社を作ってネットで営業してうちで受け取る。そうすれば、余計な書類を作ることなく、うちに来るだけですべての手続は終わる。車も通販の時代。うちなら中古車も扱えるので幅広い要望に対応できる」として、Webサイト開設を準備している。

 最近、新車を購入した40代の男性は、こう語る。「新車の契約が終わったと思いきや、隣の掘っ立て小屋みたいなところに通され、オプションの説明を延々と受けた。よくよく聞いてみるとそれを買わないと安全に走れないかのようなセールストークもあり、なぜ完全な形で売らないのか疑問である。パチコンの景品交換所みたいに、うちは本体とは別ですよみたいな体裁を取るものの、別の客に本体を売っていた人が、自分に対してはオプション販売を担当しているようで、明らかに怪しい。なんで携帯電話のオプションみたいに複雑な制度になってしまったのだろうか。支払総額は本体価格が146.7万にもかかわらず、自分で試算してみたところ280万ほどになる予定である。定価は400万を若干下回るくらいなのだが、様々な割引が適用されると言われた。説明を読んでパソコンで計算してみたが、自信がない。頼んでいないのに走行距離が自動的にメーカーに送られているようで、乗り方によって料金が変わるようである。最終金額がいくらになるのかは購入後半年経つまで確定しないという。見積書を要求したところ、オプションと合わせた提示は規制によりできないと言われた。」本体価格引き下げ政策は、政府による行政指導で行われているものであり、法的規制はないが、実際は業界側の自主規制により、本体とオプションは別々に売られているという体裁を保とうとしているようである。
 標準仕様車には性能の低いタイヤが装着されている。購入者はあとで自動車用品店などで好きなタイヤに交換できるが、オプションのセット割引を活用するために引き渡し前に交換する人が増えている。標準タイヤは原価が安いとはいえ、新品である。ところが性能が悪く、中古タイヤとして人気はない。わずかな距離しか使わないほぼ新品のタイヤが大量に余るようになり、不正投棄も摘発されるようになった。有料レジ袋の海洋汚染より、こちらの方が深刻だという指摘もある。オプション品の営業マンの間では、標準タイヤをそのまま使い続けた場合のトラブル発生率が高いことを示す営業資料が出回っている。タイヤメーカーは安全性には問題なく、根拠がないと主張するものの、表立った法的措置は行わないという。タイヤの生産、輸入業者の経常利益は前年に比べ大きく伸びている。

 書店には、本体とオプションを合わせた総額でいかに安く買うかを解説したマニュアル本が高く積まれている。
 また、前述の男性がパソコンで手計算したような価格計算を行うためのWebサイトが登場した。メーカーのWebサイトでの見積りよりも正確に出るとして話題になったが、作者は本名や素性を明らかにしていない。やがて割引キャンペーンが常に激変するようになったため、週1回ソフトウェアのバージョンアップが行われるようになった。作者は、ソフトウェアの管理のため本業を控える代わり必要があり、ソフトウェアを有料にするかもしれないとブログに書いたところ、あるメーカーが提供する情報をビジネスにすることについて、複数のメーカーから警告があり、まもなく公開中止に追い込まれた。本がよくてソフトウェアが悪いというのは納得がいかないし、メーカーが不透明な値付けをしていることが根本の原因だとして作者はメーカーを強く批判した。

 警察庁のまとめによると、自動車の衝突事故が増加傾向にあるという。オプション課金を嫌って、法令で定められている衝突事故防止装置が取り付けられていない車が目立つが、外見からは装置の作動を確認することは難しく、抜き打ちで検査する制度を検討しているという。また、急ブレーキが自動で検知され、安全運転社会に協力していない証とされてオプション割引キャンペーンを減額されることを嫌い、ブレーキを踏むことに躊躇する運転手が増えているとも言われている。なお、高級車の窃盗事件は減少傾向にあるという。我が国は海外窃盗団にとっても魅力がない国になってしまったといえる。
 消費者庁は、自動車販売、自動車品質に対する消費者からの相談件数が急増していると発表した。ネットの書き込みには「まるで携帯電話の代理店のように、中途半端な知識で自動車の説明をしている者がいる。これまで当たり前だった安全への品質が損なわれている」といった声も見られた。こんな自動車販売業界に優秀な人材を集めるのは難しいだろうと、ネット世論は業界に対して同情する。
 自動車ディーラーの収益構造が厳しさを増す中、県内にディーラーが1件もない空白県が10県に達することが判明した。ひとつの店舗で複数のメーカーの新車を扱うことを認めるべきかどうか、ディーラー各社とメーカーとの議論が水面下で繰り広げられている。大手損害保険会社は、故障時のレッカー移動距離の上限を150kmまで引き上げる一方、レッカーサービスの追加保険料を大幅に値上げした。別の損害保険会社はレッカーサービスの付帯を廃止することを決めた。

 経済産業省は、本体価格引き下げ政策の対象を大手製造者3社に絞ってきたが、平均価格がなかなか下がらないとして、政策回避の目的で製造を止めた大手も含めてすべての自動車供給業者に対象を広げる方針を決めた。これまで工場からの出荷時の原価を規制するという方法が取られてきたが、例えば輸入車に対しては輸入原価を工場出荷時の原価とみなすことが検討されている。
 各国の技術開発競争あるいは大手のシェア争いが続く中、国産車のみ価格統制をする政策が見直され、公平性が保たれるとして歓迎する声も一部からは聞かれた。
 自動車輸入組合はただちに声明を発表し、「輸入車は単なる移動手段ではなく、高いブランド価値と、走ることの喜びを提供してきた。ところが、輸入輸送コストですら価格に転嫁できないとなると、業界としては死活問題になる。各社はグローバル展開しているため、本国に比べて著しく利益率を下げた価格で売るわけにはいかない。関税は変わらないのに価格上限まで設定され、新たな非関税障壁になる」と反発した。
 制度変更を警戒した消費者により、高級輸入車に対する駆け込み需要が発生したが、それでも輸入車販売代理店の関係者は「当社には100万円で販売できる車は1車種もないため、特需の後は新車販売から撤退し、リースやレンタルに限定したビジネスにシフトしていくことになるだろう」と話している。自動車の購入は海外で調達し、自社で輸入する分には国内で販売が発生しないので規制を回避することが可能だ。自動車整備は自社のノウハウで対応できるが、顧客に対して同じような個人輸入サービスを提供するかどうかはまだ未定だという。

 自動車評論家は「新製品ライフサイクルが非常に長くなっている。メーカーが新車開発投資すら負担できなくなっている。排気量規制やサイズの規制がない軽自動車のようなものしか出てこない。重要なことは、本体価格引き下げ政策の目的になっている、ひとりひとりに自動運転車を普及させる動きが鈍っていることだ。自動車各社が自動運転に対する投資をできていない。自動運転実験に対する特区申請や補助金申請も取りやめになっていると聞く。何のための引き下げだったのか。」と怒りをあらわにする。
 そんな中、唯一残っていた自動車に関する雑誌が廃刊に追い込まれた。最近の記事はかつての名車を紹介するものばかりだったという。
 海外の新聞は、我が国の自動車メーカーにおいて、我が国らしさが失われていると報じている。設計も製造も販売も我が国で行われず、創業国の人々が関与していないので当然の帰着だと論評している。あるメーカーの人事担当者に取材し、幹部候補向けの研修で創業者のアイデンティティを伝える教育に苦心しているとのコメントを得たとしている。
 経済評論家は「高い車を買いたい人は高い車を買えばいい。買える人にまでなぜ安い車しか使わせないのだろうか。自由経済において価格統制がうまくいった試しはない。低所得者に低価格車を普及する手段は価格以外にあるはずだ」と語っている。

 政府に対する批判を表立ってする者は少ないが、不満は根強い。週刊誌報道により、政府高官の公用車が高級輸入車に切り替えられたことが明らかになった。週刊誌発売の翌日、経済産業大臣会見で報道に関する質問が出た。大臣は記者からの追求に対して「現在の自動車市場で、安全基準を十分に満たす車が調達できなかった」と反論したが「そんな市場にしたのは大臣ではないか」「国民には標準車しか与えず、なぜ大臣だけ高級車に乗るのか」「我が国の自動車産業の競争力が失われた責任は誰にあるのか」と再質問を受け「引き続き政権の目玉政策であり、ご理解いただくしかない」と応じるしかなかった。