成果主義は不平等である。よって、反対する。
ひとつ。サッカーにアシストがあるように、著しい成果を上げた者の背後には必ず支えている人がいる*1。ゴールを決めた人ばかり報われて、支えている人たちが報われないのはおかしい。
会社での評価が上がり、次の仕事がしやすくなり、みんなにほめられ、表彰されるまではいいが、基本給まで差を付けるのはおかしい。むしろ「基本」的な給料は、自らの成果を上げることに最大限の力を注いだ人よりも、その人たちを支えた人の方が会社の同僚に貢献している度合いが高いはずで、基本給は高くならなければならない。自分の成果が外に向くか内に向くかで、必ずしも平等に評価されない。
「いや、すばらしい成果を見て他の社員が動機づけられる場合もある」という反論にあうかもしれない。確かにそうこともある。しかし、必ずしもすばらしいとは限らない。偶然の成果かもしれないし、おこぼれや横取りの成果かもしれない。本当にすばらしいかどうかを誰が判定するのか。成果主義は、結局「おこぼれでも横取りでもよい」と言っているに等しい。これによって限られた既存顧客の奪い合いが起こるのは大きな会社ではごく一部に過ぎないだろうが、そういうことがどこかで行われれば、士気は下がる。
ふたつ。いろいろな種類の人が必要だから会社という組織が作られる。特定の種類の人たちだけ評価されるのはおかしい。例えば、ぱっとしない部署と、目立つ部署があるとする。ぱっとしない部署のモラルはどうなる。差があるのは評判くらいで十分だ。それにさらに月給の高低を付けるのは差別の増幅だ。
みっつ。大概の組織はみんな横並びである。すると、差を付ける意味がなくなる。また、評価段階が大きいと、最良評価をもらえる可能性はとても低い。
一方で、下がるリスクは大きい。評価を決めるのは自分ではなく、自分の業績でもなく、実は上司の心象だからである。上司は本当に公平だろうか。上司裁量で給料が決まるなんておかしい。しかし、上司が査定するより効率的な方法や客観的な方法なんてない。
よっつ。成果主義を採用すると、本来は「業務の安定」「長期視野での計画の遂行」が最重要課題のはずの間接部門に「短期成果」「定量的目標」というものさしが導入される。間接部門が間違ったことを始めたり、体力がなくなったりしてくる。その中で、人事部門の人にとっての目標は人件費の圧縮や安定化になる。よって、著しく成果を上げた人に与える昇給の原資がなくなる。
成果主義を好むならば、以下の方法を採るしかない。
成果は、生活給*4に反映すべきではない。 個別の報奨金を高く設定すべきだ。